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 予定外の高校訪問をスケジュールに入れたため、寿々木恵麻は想定より長い日数を、高原の地方都市で過ごしていた。もっとも、大変充実している日々のため、むしろ色々やりくりして変更してよかったと思っている。


 こんな田舎の、と未那には言ったが、暑いことは暑いが、気候は穏やかで風は涼しく、なるほど英国でも有名な避暑地(の近隣)と言うのは名前だけではないくらい過ごしやすい。

 大学設備も、都内の大きな大学の研究室に比べれば古かったり狭かったり、使える物品が限られていたりと多少ならざる難はある。けれどそれを覆す面白い視点の研究がされていて興味深い。恵麻の専門は廃棄物からのレアメタル抽出であるが、今一つ後塵を拝する、という感をぬぐえない。エコロジーで注目も浴びやすい視点なだけに、多くの研究者も取り組んでいる。廃材を金属化する、という研究も、聞いた時はどういう意味か分からなかったが、実際に制作された木片は、金属並みの強度と木の持つ温かみを両立させており、インテリアや工芸品としても需要が期待できる。残念ながら、世界の産業を変える、というパワーには欠けていると思うが、正直世界の動きは分からない。突然注目される可能性は皆無ではない。


 研究だけでなく、趣味や娯楽の面でも、恵麻の休暇は充実していた。それに、友人――未那ではなく、英国にいるシアの方である――に気兼ねすることなく、麗しいケニーを眺めながらお茶を飲めるのは、今だけだろう。

 恋愛感情はないが、美しいものを鑑賞するのは恵麻にとって最大の喜びである。今は、その他に色々妄想のネタも手に入れて、脳内で楽しみながら実物を観賞する、というスペシャルな時間を過ごせている。二人きりではないし、場所はたいてい、ケニーの研究室だが。


「楽しそうだね、エマ。久しぶりの日本を、こんな田舎で過ごすなんて、って言っていたのに」

「そんなの、挨拶みたいなものだわ。来てみればすごく楽しいし。それに、ケニーがこんなに日本語が上手だなんて知らなかったわ」


 一応基本的な英会話は可能だが、ケニーと恵麻が夢中で話すとネイティブ過ぎて蚊帳の外になってしまう未那のために、二人は日本語で会話をしていた。それがいつの間にか、未那がいなくても当たり前のように日本語で会話するようになった。


「いつか日本に行きたいと思って習っていたんだよ。シアには内緒だけどね」

「何故内緒なの? 教えてあげればいいのに」

「僕に隠れて、二人で日本語のイケナイ本を読んでいるだろう? だから気が付かないふりをしているんだ」

「あ、なるほど。ごめんなさい。シアが私の部屋で見つけて。でも、そこまでイケナイ内容じゃないのよ?」

「僕らの世代は、同性愛にそこまで過敏ではないけどね。でも、ジョンが知ったら、あまりいい顔はないだろうね。まだまだ宗教的見地から否定的な人間は多いし。ああ、趣味範囲でなら、僕も別に構わないよ。君とシアが恋仲に何てならない限りは。だから、うまく隠しておいてほしいな」


 いたずらっ子のようにウィンクするケニーは、いつもより幼く見えたが、なぜか妙な色っぽさも感じた。

 

 一瞬見とれて、邪念を振り払うようにエマは慌て返答する。


「大丈夫よ。シアはあなたに夢中だし。昨日だって、ケニーの様子を知らせてほしいってメールが来ていたわよ。ちゃんと連絡しているの?」

「してはいるけど。君のレポート程細かくは知らせていないな。今日のお茶の時間の、茶葉は何だったとかケーキの種類とか。そこまで知りたいのかな?」

「それが恋する乙女、っていうものよ。同じものをセレクトして楽しみたいのよ。……今日は、中国茶? 緑茶とは違うけど?」

 ケニーが入れてくれた淡い黄緑色のお茶を口に含み、恵麻は尋ねる。

 ちなみにお茶請けは、恵麻が東京で買ってきた、小鳥の形の有名菓子である。

「中国茶だよ。文山包種。発酵が浅いから、日本人でも飲みやすいって聞いたよ」

「そうね。私、中国茶は割と香りが強くて苦手なんだけど、これは飲みやすいわ。でも、ほんのり花の香りもする。このくらいなら大丈夫よ。ジャスミンとは、少し違うわね」

「そうだね。蘭……ミュゲに近いかな」

「ミュゲ……鈴蘭? シアの好きな香りね」

「そうだね。エマはジャスミンの方が好きなんだよね?」

「ええ。ミュゲは、ちょっと大人っぽい感じがして。でも、気品のあるシアにはぴったりよ」

「そう? 恵麻にも似合うと思うけど。十分気品のある、素敵な女性だよ、君は」

「お世辞が上手ね。そんな風だから、シアが心配するのよ?」

「本気だよ。もし、シアに出会う前だったら、君を愛していたかもしれない。聡明で、理性的で、リアリストな部分もありながら、大きな夢を見られるスケールもあって」

「それは、研究者として? それならば嬉しいけど。残念ながら、シアに夢中なケニーを知っているのよ。だから本気にはしないわ」

「シアに出会わなければ、って言ったよね? そのくらい、魅力的だってことを言いたいのさ」

「ありがとう。私もケニーが好きよ。シアの婚約者としてのケニーと、研究者としてのあなたをね」

「……恵麻、何か、あった?」

「え?」

「この間、ミス・タカハシと出かけてから、ちょっと変わったな、と思って」

「……そうね。ちょっとした出会いがあって。自分でも不思議なのよ。ケニーと同じ年とは言え、高校生の男の子が気になるなんて」

「もしかして、恋でもした?」

「恋……っていうのかしら? 別に、その子が欲しいわけじゃないのよ。と言うか、男女のしがらみは、ご遠慮したいの。私は、誰か男性と幸せに暮らす未来なんて、想像できない。でも、子供は欲しいのよ。その子の遺伝子に欲しいな、って思ったの」


 ふふ、といたずらっ子のように微笑む恵麻に、ケニーはため息をつく。


「……エマ、そういうことは、他の人に言わない方がいいと思うよ。特に、その相手には。特に日本は、その手の生命倫理に敏感だ。未だに代理母も認められていないからね。一応精子バンクは浸透してきているとはいえ……と言うか、君は日本人だよね?」

「そうよ。変人なの、昔から。それに、もう言っちゃったわ。あなたの遺伝子が欲しいって」

「高校生に? 驚いたんじゃないかい?」

「まあ、少しはね。でも、精子バンクを探せって返されちゃったわ。クールな返答よね。さすがは見込んだ宿主だわ」

「君のことだから、よっぽど美形だったのかな?」

「まあ、悪くはないけど、周りがすごすぎて目立たない感じよ。今時の高校生ってすごいのね。あの学校がすごいのかしら? 美形ばっかり集まっていて。でも、その中にいても、見劣りしない存在感なのよ。そうね。あの油断のならない感じの目が、良かったわ」

「へえ? 名前は?」

「イツキって言ってたわ。カラサワ・イツキ」

「カラサワ……イツキ?」

「斎宮の斎、でイツキ、よ。斎宮って言うのは、日本の昔の、高貴な生まれの巫女……聖女のことで、『斎』は神聖なことの意味よ」

「神聖、ね。すごい名前だね」

「ケニーもすごいけどね。前にシアに言ったけど……」

「僕は名前負けだよ。太陽に月なんて、おこがましいにもほどがある」

「……おこがましい、なんて、今時日本人でもめったに使わないわよ。ホント、そういうところ、ケニーはすごいわ。十分に太陽と月の名にふさわしい、『美しい者ケネス』だわ」


 ティーカップが空になったのを見て、ケニーがお代わりを勧める。うなづくと、ベルを鳴らし、それに応えて研究室の奥にいた若い男性がポットを持ってきて、新しいお茶を注いでくれた。いつもケニーの研究室にいるが、恵麻とは話したことがない。未那は、あまり見覚えがないが最近よく見かけるので新しい院生だろうと言っていた。

「でもね。その彼から、連絡が来たのよ。よかったら、会いませんか? って。これって、脈があると思う?」

 男性が立ち去った後、恵麻は話を続ける。というか、今日はこれが本題だったのだ。男性としての意見を聞きたくて。

「……エマは、十分恋をしていると思うけどね。まあ、君が一目で恋に落ちるほどの男なら、高校生といっても、かなり精神年齢は高いと思うし。いいんじゃないか? 一度会ってみなよ」

「……そうね。イギリスに戻ったら、すぐには会えないものね。そうするわ」

 うなづいて、恵麻は新しいお茶を口に含む。


「……あれ? これ、さっきより少し苦い? 時間が経ったから?」

「ああ、少しブレンドを変えてもらったんだ。香りが平気そうだったから。この方が、深みがあると思わないかい?」

「そうね。お菓子を食べながらなら……ええ。このくらい、苦くても、大丈夫よ」

 

 二杯目のお茶を飲み干し。

 そろそろ、と言って恵麻は立ち上がり。




「え?」





 不意に、めまいが襲う。

「エマ!?」

 慌てたケニーが、恵麻に駆け寄り、体を支える。

「だい……じょ……う……」

「大丈夫じゃないよ? 何が起きたんだい?」

「目の……ま……」

「目の前が真っ暗になって、良く見えない? でも、僕の顔は見える?」

「……」


 恵麻は続けて言葉を発することが出来ず、かろうじてうなづく。

「そうか……。よく効いたみたいだ」


 ぼんやりした視界の中で、嫣然と微笑むケニーの笑顔は見えた。嬉々としたその声を聞きとり、恵麻は顔を引きつらせる。


「大丈夫。毒じゃないから。最近、僕の催眠が効かないと思ったら、恋をしてしまっていたんだね。でもなかなか大物を釣り上げてくれたから、良しとしよう」


 恵麻の身体を研究室の隅のソファーに運び、横たえる。枕代わりにクッションをあてがい半臥位にすると、研究室の奥から男性が、盆にのせた水入りのグラスと薬瓶を運んでくる。


「さあ、これを飲んで。大丈夫。毒じゃないから。さっきのお茶にも、少し入っていたけど、あれだけじゃ本当の効き目はないからね」


 恵麻は涙ぐんで、イヤイヤと首を横に振るが、その動きに力はない。うつろな目には恐怖の光が宿る。


「大丈夫。ただ、少し、気持ちが楽になるだけだから。僕の声が届きやすくなるように、ね」

 薬瓶を唇にあてがうが、口の端から薬液が零れ落ちてしまう。


「仕方ないな。トキムネは、まだ耐性がないし」


 軽くため息をつくと、ケニーは薬瓶をあおり、薬液を口に含む。

 そのまま嚥下せず、恵麻の唇に自身のそれを合わせ、脱力し抵抗できない恵麻の唇を分け入る。


 ゴクン、と恵麻が薬液を飲み込んだのを確認し、ケニーは顔を起こすと、用意されたグラスの水を口に含み、添えられた小さなボールに吐き出した。


「さて、この接吻キスのことは、シアには報告レポートしないで欲しいな。大丈夫? エマ?」


 目はまだうつろだが、先程までの恐怖はなく、代わりに恍惚したように潤んでいた。

「ね? 約束して」


 呆けたように、素直に恵麻はうなづいた。


 口に広がる薬液の味は、かすかな苦みと、それ以上に濃厚な甘み。

 ケニーが用意してくれた文山包種茶の、鈴蘭の香りが、どこか遠くでする。


 ……でも、鈴蘭は、猛毒なのよ。


 ぼんやりした頭の隅で、かろうじて理性を保っていた部分が、分析する。


 ……猛毒の、キス……なのに、こんな、甘い……。


 やがて、その理性も恍惚に飲み込まれ。



 麗しい悪魔の腕の中で、恵麻は、ひと時、眠りに落ちた。

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