第9章 誘惑の天妙華

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「泊まってもいいけど、明日は相手できないよ」


 七月半ば、梅雨は明けたが、今度は夕立に見舞われる日が増えてきた、蒸し暑い土曜日の夕暮れ。

 そんな外気の不快さとは無縁の、万全の調整がされた唐沢家の一室にて。


 表向きとは言え武道家の住宅が、最新鋭の空調設備を備え、常に快適な環境にあることに、鍛錬って文字にそぐわないな、などと斜め上の感想を抱く和矢であったが。

 唐沢家の本来の家業を考えていると、何となく日本古来の『武士道』とか『忍び』とかに対するイメージがガタガタ崩れていく。『心頭滅却すれば火もまた涼し』って、どこの言葉だっけ? そんな疑問も湧いてくるが。

 快適な環境は読書にはもってこいなので、口にはしない。

 口にしたところで、『古いなあ、和矢は。そんな精神論、複雑な現代社会じゃ役に立たないよ』云々と斎に論破されるのは目に見えているし。


 まあ、うだるような暑さの中で、ほどよく汗をかきながらキビキビと動いている巽や珠美の姿を見れば、鍛錬は鍛錬としてきちんと行っているのだろうし。しかも『ほどよく汗をかく』という外観すら、意識的に行っている生理反応だとは、誰も思わないだろう。

 周囲から浮かないように、汗や顔色すら調整できる彼らは、確かにプロフェッショナルな武道家であり、忍者の末裔なのだ。


 その筆頭たる、唐沢斎――次代の真の総領であり、表の次代総領の巽の兄は、今目の前で、エアコンの冷風を享受し、クッションを抱いてゴロゴロしながらベッドで画集を眺めている。そして、ふと気が付いたように、和矢に声をかけてきた。


「え?」

「だから、明日は僕、出かけるから。泊ってもいいけど、今夜は調整したいから、相手できないし」

「調整って、珍しいな。そこまで気を遣う用事なんだ?」

「まあね。まだ何とも言えないけど。不確定だから、詳細は事後報告でいいかな?」


 いいかな? と一応確認を取っているが、斎は決して事前報告する気はない。

 それが分かるので、和矢も素直にうなづく。無理強いしたところで決して翻さない斎に無駄な労力を使っても仕方がない。


「じゃあ、今日は帰ろうかな。弓子さんも締め切り前だし、一応美矢には頼んできたけど、今夜はリクエスト入るだろうし」


 一年がかりで弓子の生活リズムと体質改善を図り、冷え性は多少改善した様子であるが、冷房大好きの弓子は和矢の目を盗んでは、エアコンの設定温度を最低にして仕事をする。そのくせちょっと涼しい夜になると『寒い寒い』と毛布にくるまり、和矢に特製のチャイをねだってくる。

 和矢の手作りのチャイは、生姜とシナモンをベースに様々なスパイスを組み合わせて薬効を醸す特製であり、和矢も基本に則りながら配合はその時の感覚で行っているので、レシピが作れない。週末は配合したスパイスを一回分ずつ分包し、そのまま牛乳と沸かせばよいように準備してきてあるが、弓子からしたらどこか味が違うらしい。


「大事な叔母様を放っておけないから、ってのも日本滞在の理由にするかい?」

「バカなことを。ヘタにそんなこと言ったら、弓子さんが消されるよ」

「そこまで安易じゃないだろう? 一応、上位会員だ」

「まともな人間だけならね。ガーガー喚くだけの非常識なバカと、ほどほど利口な常識人なら、扱いやすいんだけど。手に負えない頭脳明晰な大バカどもがいるから、ね」

「で、その魔の巣窟からのコンタクトだけど」


 和矢の酷評に斎は薄笑いを浮かべて。


「その後『研究所ラボ』に関しては、目立った動きはない。ただ、来春にイギリスで工学系多分野合同の大規模な国際学会が計画されていて、分野違いの研究者が一堂に会するらしい」

「現代の錬金術師の集いか。学会ってのは、いい隠れ蓑だよね、実際。公的に集まって、専門分野の密談をしても、研究秘匿、企業秘密だって言えば怪しまれないし」

「ああ。それに……『時計塔の地階アンダーグラウンド』は、その錬金術師が主体の組織らしい。魔術派閥の『黄昏の薔薇トワイライトローズ』に組み込まれているのも事実らしいけど。どうも、離脱というか、独立を図ろうとしているみたいなんだよね。今回、英人が狙われた背景に、無関係とはいえないだろう。アキラ=ケネス・香月は、まさに現代の錬金術師と言える、治金系の分子工学の研究者だ」

「アキラ=ケネス、か。アキラって、漢字は?」

「日の光、で晃だよ」

 斎がベッド脇のサイドテーブルにあったメモ用紙に、さらさらと書き出す。


「晃=ケネス・香月、か。こうして字面を見ると、平凡なようでいて煌びやかな名前だな。太陽と月に挟まれて。ケネス、は」

「ケルト語で『美しい者』って意味だよ。不遜なまでにキラキラだな。まあ、あの美貌なら名前負けしないけどね」

「英人そっくりの、あの顔ならね。……英人との関係は?」

「今のところ何も。研究所の過去情報はトップシークレットだし。英人と健太が同じ日に同じ産院で産まれたってのは、事実みたいだけどね。今、その生年月日を手掛かりに、情報収集している。誘拐の被害届か捜索願か、せめて死産の届け出でもされていればいいけど、望みは薄いな。権力か金銭か、そのどちらもか、圧力をかければ簡単に隠蔽できるだろう。あの国なら」

 低所得者層での未成年者略取が平然と行われている国情を、和矢も知っている。斎の言葉に、うなづかざるを得なかった。


「というか、その情報を何で英人は隠していたんだ? 洗いざらい話したんじゃなかったのか?」

 英人に複雑な感情を抱く和矢の見方は、自然と厳しいものになる。


「別に二心があったわけじゃないと思うよ。話すまでもない、と思っていたようだし。健太が勘違いしていることに最近気が付いて、どう話そうか困惑していただけみたいだよ。案外抜けているよね、アイツも」



 俊が英人に『和矢と仲良くしてほしい』と頼んだことを知っている斎だったが、それは和矢にも頼むべきだと感じていた。俊が頼めば、和矢も態度を改めるかもしれない。もっとも、和矢が英人の中のシンヤに対して持っている思慕とシンヤを抱える英人への敵愾心という、アンビバレンスな感情の波を表出する場面を見るのが楽しくて仕方ない斎は、おせっかいを焼く気は毛頭ない。

 健太と言う仲介役もいることだし、多少の不協和音は丁度いいスパイスだ。


 一見完璧な和矢が感情を揺らす姿でも見ないことには、そのうち自分の興味関心が薄れそうで。最近、特にそう感じる。


 唐沢家として和矢を擁護することは、斎の胸三寸である。斎の意向は一族に反映されるが、一族の意向は、それが総意であったとしても斎に影響しないし、させない。

 今までなら、十分和矢は魅力的な主だったし、その周囲も、斎を楽しませる人材に富んでいる。けれど。


 もし、英人や健太や俊が、晃=ケネスに取り込まれたら。


 あの、人格に大きな問題を抱える天才研究者を矯正するのも、それはそれで楽しそうだな。


 そんな昏い喜びを覚えながらも、斎は自制を試みる、一応。


 まあ、それよりも、あちらを取り込む方が、お得で楽しいか。

 どのように篭絡するか想像すると、気分が盛り上がってくる。


 まずは、外堀を埋める必要がある。

 手掛かりは。


 寿々木恵麻。


 晃=ケネス・香月とのつながりを感じる、あの一風変わった女性から、まずは取り込んでみよう。

 どういうわけだか、彼女から斎に興味を持って近付いてきた。

 調べてみたら、やはり同じ分子工学の研究者らしいと論文から推察された。所属は首都の大学で、今は休暇中らしい。この時期に、世界レベルの研究者とその卵がこんな地方に揃うのは、単なる偶然とは思えない。

 


「和矢、帰るなら送るよ」

 明日のために、今夜は神経も体力もベストコンディションに持っていきたい。

 半ば追い出すように和矢を家まで送り届け、斎はスマホの画面を開く。


『明日会えるのを、楽しみにしているわ』


 寿々木恵麻からのメッセージと、待ち合わせ場所を確認し、スマホの画面を落とす。ほくそ笑みながら。

 


 明日は楽しい休日になりそうだ。

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