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「……真実ちゃん、あの……」

「ん?」


 加奈の希望で、とにかく帰宅することにして。


 幸い、加奈の荷物は路上に残されており、無事回収されていた。加奈は中身を確認し、帰宅の準備をする。そして、申し訳なさそうに、真実に声をかける。


「あの……今夜……」

「ああ、そう言えば、何だか話したりないなあ。加奈のおうちに行ってもいい?」

 真実が、ふと思いついたように提案すると、加奈は安心したように、「今訊いてみるね」と自宅に連絡を入れる。


「大丈夫だって。よかったら、泊まって?」

「やった! 加奈の家にお泊り! 寝るまで一緒におしゃべりしようね」


 真実は浮かれて見せて、それから慌てて自分も自宅に連絡を入れる。

 母親に多少の小言を言われながらも許可を取り、斎の家の車で加奈の家まで送ってもらった。状況を察したのか、斎は運転手も女性にしてくれた。


 加奈の家に泊まったのは初めてではないため、加奈の家族の顔は見知っていた。おみやげに途中で買ったドーナツを加奈の母親に手渡して急な訪問を詫びたが、嫌な顔一つせず「たいしたものは準備できなくて」と逆に恐縮しつつ歓迎してくれた。

 

 加奈によく似た面差しの朗らかなお母さんと、ちょっと心配症っぽい、でも優しそうなお父さん。

 

 娘をとても大切に思っている両親に、加奈も笑顔で応対する。


 そんな暖かい家族の情景を目にして、真実の心は痛んだ。


 これほど愛している娘の身に起きたことを、この両親が知ったら、どれほど嘆くだろう?

 この時点では、真実も詳細は分かっていなかったが、英人の姿を見て震えていた加奈の心情は分かる。家族と同じくらい、いやもしかしたら家族以上に愛しているはずの英人に対して、あれほどの忌避を示すような何かが、加奈の身に起きたことが。



 その夜、加奈は、ぽつりぽつりと、話してくれた。すべてではないけれど。

 真実の手を握りながら、ゆっくり。

 拉致されて、目を覚ましたら男がいて、拘束されていて、加奈を乱暴しようとした、と。


「……じゃあ、ギリギリ、間に合ったんだね?」

「うん。もうダメって、思った時に、大きな音がして。気が付いたら……壁に、穴が開いていたの……そこからは、よく覚えていなけど」

「……たぶん、その時には、もう、私達がいたから。だから、大丈夫だったよ、きっと」

 加奈を安心させるように、握った手を、真実は頬ずりした。


「……英人も、助けてくれたのよね? なのに……私……」

「……いいんだよ。今は、まだ、加奈の心が疲れているだけなんだから。そんな怖い思いしたんだから、気持ちが落ち着かないのは、当たり前だよ」

「でも……」


「……あのね、これは、健太に聞いたんだけど。あ、皆には秘密ね。……高天君、去年の事件のあと、平気そうにしていたじゃない?」

「うん」

「でもね、健太といる時に、シバの名前を聞いて、ものすごいパニックを起こしていたんだって。たぶん、三ヶ月くらい経っていたころだと思う。シバのことを訊かれて、息ができなくなるくらい、ガタガタ震えて。あんな風に強く見える高天君でも、そうなっちゃうんだから、仕方ないよ」


「……私、高天君に、もしかしてひどいこと頼んじゃったのかしら?」

「ん?」

「英人のこと、シバのこと、許してほしいって。あのイルミネーションの事件の後に、私……」

「多分、その頃は、高天君もシバを受け入れていたみたいだから、大丈夫だよ。逆に英人さんに、すごく同情していたって聞いたし。まあ、シバがどうこうより、高天君に暴力をふるった人……スガヤって言ったっけ? その人が問題なんだと思う」


「スガヤ……に」

「うん、その人、どこに行っちゃったんだろうね。できれば、もう高天君の前に現れないで欲しいけど」


「……さっきのね、私に乱暴しようとした、男……それ、スガヤらしいの」

「え?」

「私、顔は知らないけど。でも、アキラ、が言っていたの」

「アキラ?」


「その人が、全部、指示していたの。自分は好きな女性以外抱く気はないから、スガヤに……させるって」

「は? 何それ?」

「ただ、英人を苦しめたいだけ、なんだって。そのためだけに…………その様子を動画も撮るって、嬉しそうにスマホで」

「アキラ、って、何者?」

「よく分からない。留学生だって言ってたけど。……英人に、そっくりなの」

「……あ! あの時の?」


「うん。英人そっくりな顔で、まるでモノみたいに……冷たい目で、私を見て。……私が泣いたり、怯えるのが、嬉しいって……スガヤも怖かったけど、あの人の方が、もっと……ぞっとした」


 思い出して、ぶるっと身震いする加奈を、真実は抱きしめた。

「……話してくれて、ありがとう」

「真実ちゃんこそ、……今日は、一人でいたくなかったの。でも、誰にも言えないし……ありがとう」



 そのまま、お互いの体温を感じながら、眠りに入り。


 けれど、夜中に何度か、加奈はうなされていた。その度に真実は、ぎゅっと手を握ったり、背中をさすって。


 やや寝不足気味で朝起きた後も、その日は一日加奈の部屋で、ぼんやりと過ごした。

 二人でくっつきながら、何かを話すわけでもなく、時々はおしゃべりして、たまに学校の課題をやったり、加奈の母親が作ってくれたごはんやおやつを食べて、他はただぼんやりと。

 週明けには美矢と珠美が作ったというラベンダーの匂い袋入りの羊のぬいぐるみを手渡され(美矢が珠美の家に泊まり込んで作ったらしい)。

 週末にまた真実は加奈とお泊り会をする約束をして。

 

 一見、元の日常が戻ってきたように感じられたが。


 ……まあ、すぐには無理よね。


 男性が近付くと、加奈は息が止まるほど緊張している。真実が手でも肩でも触れることでそれは緩むが、美術部の男子であっても、それは変わらない。

 

 英人ともあの後一度顔を合わせたが、さらに反応はひどくなり、過呼吸に陥りかけた。


 それ以来、英人は加奈の前に直接姿を見せない。真実とは、ほぼ毎日顔を合わせているが。真実を迎えに来る健太と一緒に、加奈の帰宅を確認している日々なのだ。

 メールや電話ではやり取りしているというが、加奈が自分から会いたいというまで待つと言う。


 斎に呼び出され、仕事を終えてすぐに帰ってきた健太は、ここ半月上京する仕事をすべて断って、真実に付き合ってくれている。

 そんなことをして、今後の仕事に影響が出ないか心配になったが、元々そんなに予定が入っていなかったから大丈夫、と言われた。最近になって上京の頻度が高くなっていたから、その言葉を信じてよいものかどうか不安だが、正直ありがたい。


 もっとも、健太には真実の送迎以外にも、英人のフォローも任されているのだろう。

 加奈の心情を慮って、会うのを控えているが、目に見えて不安定になっているのも感じる。加奈に直接会えないことや、今回の一連の騒動の原因が英人にあることで、酷く負い目を感じているのだろう。


 けれど、半月が過ぎて、加奈は少しだけ落ち着いてきた。少なくとも、真実がいない夜も、少しは眠れるようになったらしい。

 男性陣への緊張感は継続しているが、かろうじて俊に対しては、少しそれが和らいでいる気がする。

 確かに美矢に夢中の俊は、加奈にとっては最も安全な男性だ。美矢も、事件のあと、俊と少し微妙な感じではあったが、ここ数日でようやく元の距離感に戻ってきた気がする。

 

 英人との関係は、時間に任せるしかない気がする。健太のフォローを受けつつも、辛抱強く加奈の回復を待って見守っている英人の様子を、加奈にも少しずつ伝えていこう、と真実は心に決める。



 放課後、美術室で美矢と珠美に加奈を託して、真実は進路指導室で面談し。

 

「あ、おかえり。大丈夫だった?」

 美術室に戻ると、加奈が笑顔で出迎えてくれる。男子は心得て遠巻きに作業をしていた。今日は優茉と絵梨は不在のようだ。


 真実は、美術室の外の花壇に加奈を誘った。アジサイが満開に咲き、抜けるような空と同じ青い花弁が風に揺れる。なかなか絵心を誘う風景だ。あとでスケッチしようね、と加奈に声をかけて。

 真実は幾分声をひそめながら、面談の内容を伝えた。


「うん、あのね。私、国立受けられそうなの」

「大学? 科目がダメだったんじゃ?」

「今年の要項が来てね、物理・化学だけじゃなくて生物も可になったの。うっかり生物応用、選択しておいてよかった」

「うっかり、って。じゃあ、化学と生物で受験できるのね?」

「受験だけはね。偏差値的には、かなり頑張らないと難しいけど。あと、近くに看護系の私大も一つ増えるっていうから、狙い目だって」

「よかった。もしかしたら、一緒の大学に行けるのね?」

「……一緒に、行く?」


 実際は、そんな気軽に言えるような成績ではないが、そこは無視して、真実は訊いてみる。事件のあった現場である大学を、まだ志望する気持ちはあるのか。あるいは。


「……あんなことで、私の夢や希望を諦めるなんて、バカみたいでしょ? そんなことになったら、私を傷つけようとした、あの人たちの目論見通りになってしまうわ。……私は、私の心や誇りは、あんなことで損なわれやしないってこと、証明したいの」


 その目には、まだ怯えや不安も見え隠れしてはいたが。

 その声は、わずかに震えていたが。

 

 それでも。


 あんなことで、負けない。そんな決意が、真実にも伝わる。


 ……そうだ、加奈のまっすぐでひたむきな本質は、誰にも侵すことも傷つけることもできやしない。



 

 勇気を振り絞って宣言する加奈の両手を握り、「一緒に頑張ろうね」と真実は満面の笑みで微笑んだ。

 

 

「うん。一緒に」




 それは、久しぶりに見る、加奈の華やいだ笑顔。


 満開のアジサイにも負けない、清々しい笑顔だった。

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