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「加奈、今日は放課後、ちょっと遅れるけど……教室で待ってる?」


 梅雨の晴れ間の昼休み、真実は中庭でお弁当を食べながら、午後の予定を加奈に告げる。

 しばらく雨続きで室内にばかりいたから、こんな天気の良い日は外でご飯を食べよう、と加奈を誘った。

 最近は食欲がない加奈も、少し気分が変わったのか、今日は笑顔で食も進んでいる様子が見える。


「どうしたの?」

「何か、呼び出し」

 進路のことで担任から呼び出されたので、放課後急遽面談をすることになってしまったのだ。

「いいけど。でも時間かかるなら、部活に先に行くけど?」

「うーん、時間読めないんだよね。きっと志望校の話かな、って思うけど」


 文系選択の真実は、二年生の終わりになって急に理系の看護系学部に志望を変更した。看護系学部は理系と言っても文系選択の科目で受けられる大学も多いためそれほど気にしていなかったが、一番近くにある地元の国立大学の看護系学部は医学部に属するためなのか、入試科目が理系に近く(というか、真実が苦手で選択しなかった物理が必須だったので)、受験をあきらめていた。もっとも、偏差値的にも厳しいので、受けても記念受験になってしまうだろうし、私立に絞ろう、とあっさり決めていたが。


「……教室で待ってるのもなんだし、美術室に行ってるわ」


 曖昧にごまかすが、教室で一人になるのも不安なのだろう。加奈は、悲壮感を漂わせ、そう告げる。たかが部活に先に行くか行かないか、という話に大げさだと思われるかもしれないが。


「珠美たちが遅れないようなら、美術室まで送って行くよ。どうせ、進路指導室も近いし」

 箸を置き、真実はスマホを操作して珠美と美矢に連絡を取る。すぐに反応があり、授業が終わり次第再度連絡を入れてくれることになった。


「……ごめんね」

「別に大したことじゃないよ。あーあ、午後イチ数学か、テンション下がるなぁ」

「真実ちゃん、数学苦手だもんね。私も人のこと言えないけど」

 クスっと微笑む加奈を見て、真実は話題転換がうまくいったことに安堵する。


 あの事件以来、加奈は男性のいる場面で一人で行動することに強い恐怖感を抱くようになっていた。表向きは以前と同様に振舞っているけれど、実際は真実がついていないと強い緊張で体が強張ってしまう。なので、クラスは違うけれど、選択授業がほぼ一緒の真実は、こうして朝から夕方までほぼべったりと行動を共にしている。


 快活で誰とでも打ち解けるイメージの加奈だったが、心底腹を割って話せるような女友達は、実は真実だけだったらしい。クラスメートに真実のような存在がいないことが、今は痛手だ。同じクラスに俊も和矢もいるが、今は壁役程度にしかならない。まあ、ないよりまし、と考えるしかない。


 さすがに朝に自宅に迎えに行くことはできないが、真実の最寄り駅が加奈のそれより二駅先なので、乗車場所を知らせて電車内で合流している。本当はホームで合流したいくらいだが、電車の本数が少なくて難しいし、そこまでやると加奈が気に病むので妥協した。

 それでも真実が「今から駅に向かうよ」「〇両目に前側に乗ってるよ」とメッセージを入れることで、加奈も安心して登校できるらしい。加奈の家の最寄り駅が、あまり混雑しないことも幸いした。

 その代わり帰りは加奈の家まで送り届ける。それについても加奈は恐縮して固辞しようとしたが、加奈を家に送ることを口実に迎えに来てくれる健太と会えるから、と冗談めかして押し切った。

 

 何より、朝よりも夕方の方が加奈の不安が強くなる。特に、あの事件が起きた日のような、どんより曇った夕暮れには。



 あの日。

 

 拉致された加奈の行方を追って、某国立大学の構内に入った真実が目にしたのは、意識を失って英人に抱き上げられた加奈の姿だった。

 英人の上着でくるまれた加奈は、呼吸をしているか確かめるために思わず口に手をかざしたくなるほど青ざめていた。

 その時真実の腕には、同じように青ざめて意識を失っている美矢がおり、目で確認することしかできなかったのだが。


 少し遅れて俊が戻ってくる頃には、美矢は意識を取り戻した。その顔はあまりにも不安げで、そのまま俊の腕にでも飛び込むのかと思ったが、美矢は真実の腕にぎゅっとしがみついたまま離れようとしなかった。

 美矢の覚醒に気が付いた俊が手を伸ばそうとすると、さらにその腕に力が入り。

 真実は反射的に、美矢をかばうように体を捩った。


「……加奈が濡れちゃうわ。高天君、傘、持ってる?」


 真実に言われて、俊は慌ててリュックサックから折り畳み傘を取り出し、英人と、その腕の中の加奈に差し掛けた。

 俊が離れて、美矢がホッとしたように小さく息を吐き、腕の力が緩まる。

 その態度に違和感を持ちながらも、真実は振りほどくことも尋ねることもせず、空いた手で美矢の頭を撫でた。

 そのしぐさにハッとして美矢は顔を上げた。目元が濡れているのは、雨のせいばかりではないだろう。

「……すみません」

「いいよ、別に」

 倒れる前の美矢の様子から、加奈の何かしらの危機を感じ取っていたらしいことは分かる。ただ、その美矢がこれほど怯えることに、真実は強い不安を抱いたが。



 ほどなく斎が到着し、唐沢家に向かった。英人は加奈を抱いたままだったので、彼の車は斎がどうにか手配して運んだのだろう。唐沢家の駐車場にあるのをあとで確認できた。


 その後、意識を失ったままの加奈を、真実と美矢、英人で見守った。


「……英人さん、これ」

「……服だけ、だ」


 加奈のブラウスの胸元のボタンははじけ飛んで、前面がほぼ露わになっていた。下に着けていたタンクトップはそのままだったので、肌の露出は最小限に抑えられていたが。


 それだけで、何が起きていたのか、容易に想像はついた。よく見れば、手首には見慣れない厚い布のベルトのようなものが巻き付いている。綿を挟み込んだ極厚のがっしりした、まるで手枷のような……想像して、真実はぞっとした。

 こんな厚いベルトで手首を拘束して、加奈をどうする気だったのか。

 怒りとも恐怖ともつかない感情がふつふつと真実の中に沸き起こる。


 それに。

「……どうやったら、こんな風に?」

 

 布ベルトは、引きちぎられたように破損していた。刃物があったとしても簡単には切れないほどの厚い生地の端が、ボロボロになっていた。


 手首に巻き付いている分は、生地の薄いところで何とか切ることが出来るだろう。真実はハサミを持ってきてもらい、三人がかりでベルトを取り外した。やわらかい素材でカバーされていたためか、手首には目立った傷はなかった。


 ベルトの残骸ごとハサミを返すと、入れ替わりに珠美がブラウスを持って部屋にやってきた。


「私のですけど、サイズ、合います?」

 加奈に何が起きたのか、聞き及んでいるのだろう。自分のブラウスを持ってきてくれたらしい。一緒に、ファスナーで開閉できるパーカーも持ってきていた。

「大丈夫だと思うけど、目が覚めたら着替えてもらおう」

 

 現場から珠美が姿を消したことを思い出したが、色々訊かないことにする。こうして唐沢家に出入りしている珠美の姿をみれば、単に巽の彼女、というのでは説明できないつながりがあることが分かる。

 おそらく、加奈の危機に瀕し、何かしらの行動をとった、ということなのだろう。


「……ん」


 加奈がうめき声を上げた。

「加奈先輩?」

 美矢が心配そうに、加奈の顔をのぞき込むと、ゆっくり加奈は目を開けた。

「……ん……美矢、ちゃん?」

「はい、真実先輩も、珠ちゃんもいますよ。あと、英人さんも」


「……英人……?」

 美矢の隣にいた英人に、加奈は視線を送り。



「いやあぁぁっ!」



 耳をつんざくような悲鳴を上げて、加奈は飛び起きた。そのまま、反対側にいた真実にしがみつく。

 ガタガタと震えて、真実の胸に顔をうずめる加奈を、真実はしっかりと抱きしめ。


「英人さん、今すぐ部屋を出て! いいから早く!」

 

 驚きに目を見開く英人を、真実の叫びと前後して珠美が強引に部屋の外に連れ出す。


「……大丈夫、加奈。今は、女の子しかいないよ」

 加奈の身に起きたことを考えれば、男性を忌避する理由は分かる。それが英人にも適用されるのはやや不可解だが。

 ふと、英人に酷似した男の姿が頭を掠める。

 ……まさか、あの男が、加奈を?


 バタバタと廊下で足音がするが、珠美が出入りを制している様子が聞こえてきた。

 

「今は、男子禁制にしました。この部屋には男は誰も近づけません。大丈夫ですよ」

「誰も……?」

「はい、英人さんも、斎先輩も、高天先輩も、来ません。私達だけ、です」


 目に見えてホッとする様子の加奈の背中を、真実はそっとさする。

「……何があったのか、なんて訊いても大丈夫?」

「…………」

 押し黙る加奈の目に、緊張が走る。真実は、静かに微笑みながら、優しく囁く。


「そっか、いいよ、無理しなくて。怖い思いしたんだよね? もう少し休む? それとも、家に帰る?」

「……家に、帰りたい」

「そっか、そうしようか? でも、ほこりだらけだから、体だけでも拭く? 珠美が服持ってきてくれたから、着替えない? 手伝うよ」


 英人から聞いた話では、加奈は瓦礫と共に脱出してきた(と言われても正直意味が分からない)ということで、雨と埃で、顔も腕も汚れてしまっていた。


 加奈は素直にうなづく。珠美がすぐにお湯を張った洗面器とタオルを用意し、加奈に手渡す。加奈は黙々と顔や体を拭いて、珠美の用意した服に着替えた。

 

 加奈に気取られないようにして、真実はその肌に目を走らせる。

 体には傷ひとつついていない。けれど、その心は。



 加奈の心に落とし込まれた深い傷とその闇を思い、真実は静かに目を伏せた。

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