第1章 春風の使者

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「異常事態よ、これは……」


 春うららかな、その日。

 県立石町原いしまちはら高校……通称セキコーの一室で、森本もりもと真実まみは頭を抱えていた。

 もっと具体的に言うと、場所は美術室――放課後には美術部の活動場所となる。


 四月になり真実は三年生に進級した。昨年末に人には言えない怒涛の事件にも巻き込まれたが、同級生の唐沢からさわいつきの助力もあり、三学期の試験も危うげなく突破して、無事進級できた。

 同じ美術部の三上みかみ加奈かなもその騒動に巻き込まれ、生命の危機に瀕するような負傷もしたが、現在は回復し、こちらも順調に進級している。


 まあ、もともとコツコツ頑張っている加奈と、テスト前だけ必死になり、困った時の「斎様」頼りの真実では、留年の危険度に雲泥の差があるが。

 そしてセキコーではよほどの事情がない限りは、留年はない。留年対象者は自主退学を勧告される、という恐ろしい都市伝説めいた噂もあるが、本当のところは分からない(本当にきわどい成績の生徒は、春休み返上で補習を受けるのは事実である)。


 真実の同級生も、一人を除き、全員が進級している。一人……谷津やつマリカを除いて。


 二年生の二学期頃から登校がまちまちになり、夜の街に出没している、という噂もあったマリカは、二学期の終業式を待たずに転校していった……ことになっている。

 事情を知らない者の間では、急激に悪化した素行の悪さから補導され、事実上の退学になったのでは、という憶測が飛び交った。当たらずとも遠からず、ではある。


 事実はもっとひどい。あろうことか、加奈の恋人に横恋慕したマリカは、その彼――井川いがわ英人えいとが自分を受け入れてくれないことに怒り、彼に刃を向けた。それをかばって、加奈は致命傷を負ったが、奇跡的に生還した。その事実は公になることはなく、関係者は口をつぐんでいる。ことの隠蔽を図った斎に頼まれ、真実も秘密を守っている。正直マリカの将来はどうでもいい。しかし、巻き込まれた加奈を筆頭に、その事件の裏に他の美術部の面々が絡んでいる。それも、本人達が望んでもいない出来事で。それらを公にして、いらぬ興味関心をひき、ひいては誹謗中傷にさらされるのは真実とて本意ではない。


 それはさておき。


 無事進級を果たした真実達同様、四月は進入学の季節である。

 ここセキコーにも二百人の新一年生が入学してきた。文武両道を校訓とする石町原高校は部活動も盛んで、同好会を含め数多くの文化系体育会系部活が存在する。

 その中でも、セキコー美術部は……まあ、同好会に格下げにならないでなんとか部の体裁にしがみついている、弱小部活だったりする。一応、美大進学者も存在し(今年も前部長の山口やまぐち先輩が現役合格を果たしている)、美術展入選者も輩出している、それなりに外部では名の通った部ではあるのだが、校内人気は低い。


 ……はずなのだが。


「なんで! こんなに入部希望者が多いのよ!」

「いや、それはそうでしょう? 今までだって、潜在的な希望者は結構いましたよ? ただ、山口先輩が追い返していたのと、高天先輩が怖いので、勇気が出なかっただけで。山口先輩が卒業して、高天たかま先輩が開花して、遠野とおの兄妹がいて、加奈先輩がいて……圧倒的美形率ですし。これは、来るでしょ、入部希望者」

 半ば呆れたように、後輩の加西かさい珠美たまみが答える。


「……開花……、そうね、開花しちゃったしね、高天君」

「ま、ぱっと見、前より少し雰囲気が柔らかくなった、程度ですけどね。でも『氷の視線を持つ男』から『雪解けの梅花の君』ですよ。大出世ですね」

「なんで梅?」

「一見寒々しいけど、よく見るとほころんでいる梅の花、ってことみたいです」

「いつも思うけど、そういう愛称? って、誰が考えているの?」

「漫画ラノベ研究会の子たちじゃないですか? ちなみに和矢かずや先輩は『清らなる白薔薇の君』で、美矢みやちゃんは『気高き白百合の君』、加奈先輩は『かんばしき芙蓉の君』なんですって」

「……遠野兄妹に『薔薇』と『百合』って、その子たち絶対狙ってつけてるでしょ?」

「やだぁ、真実先輩もすっかり詳しくなっちゃって。……本人達に内緒にしてくれるなら、極秘の新刊、回しますけど」

 声を潜めて珠美が耳打ちする。珠美の言う『新刊』が、漫画コミックラノベライトノベル研究会ソサエティ、通称CLSから密かに出回っている、校内有名人を題材にした仮想恋愛創作物同人誌であることを察し、真実も声を潜める。

「あんまりガチでないやつで。濃いのは、ちょっと恥ずかしくてまともに見れないから」

「オーケーです。あ、美矢ちゃんにも内緒で」

「……あんた、ホントに親友?」

「趣味と友情は別腹なんで」


 二人でコソコソと内緒話をしていると、当の噂の三人――三上加奈、遠野とおの和矢かずや高天たかましゅんが揃って美術室に入ってくる。

 と同時に、美術室内から湧き上がる歓声。挨拶するより先に、三人は面食らって入り口で固まってしまう。


「もー! 三人とも遅い! 大変だったんだから」

 真実が文句を言うが、事情を呑み込めない三人からは、なかなか返事が返ってこない。

「……これって、今日の体験入部の、参加者?」

 やっと加奈が、口を開く。

「そう。この人数捌くの、大変だったのよ」

「ゴメンなさい。ホームルームが長引いちゃって。でも、斎君は?」


 副部長の斎は、真実と同じ3年C組なので、散会のタイミングも同じである。ちなみに、今入ってきた三人とも三年A組の同級生である。各学年にAからEまでの四十名五クラスがあるが、美術部の三年生はAとCに固まっている。もともとの人数が少ないだけで、意図されたものではない。

 三人しかいない二年生も珠美と美矢のいるB組ともう一人、男子部員の唐沢たつみ――唐沢斎の弟である――のいるC組なので、やっぱり偏っている。


「斎君は奥で制作しているわよ。まあ、相変わらずの平常運転で、ね」

 多数の体験入部参加者を気にも留めず、制作に入ろうとしたところを真実にとがめられ、せっつかれて参加者のために椅子を並べたあとは、再び制作に戻った。傍若無人を絵に描いたような斎に比べて、弟の巽は、追加の参加者に備えて、会議室まで椅子を借りに行ってくれている。


 と、ガタガタと音を立てて、パイプ椅子の収納キャリーを押した巽が帰ってきた。

「一ケース借りてきました。このぐらいあれば足りるかな?」

「大丈夫でしょ? それ以上は美術室のキャパが足りないし。サンキュ、巽君」

「いえいえ、どういたしまして。……先輩達来たなら、美矢ちゃん、もういいかな?」

「そういえば美矢は?」

 不在の妹の美矢の姿を探して、兄の和矢が尋ねる。

「準備室に隠れてる。美矢ちゃん一人じゃ、格好の餌食だし」


 今回の「美術部に想定外の入部希望者が来ちゃって大変」現象の吸引力の一つである遠野美矢を、目をキラキラさせた新入生(主に男子)の群れに放り込むのは、あまりにも不憫であったので、用事に出たふりをして隠れているように、真実が指示した。


「ありがとう、森本さん」

 俊が、ホッとしたようにわずかに微笑む。大切な恋人が、年下とは言え男子の群れに囲まれるなんて、生きた心地がしないのだろう。


「じゃあ、部長も来たことだし、そろそろ始めない? 一年生、待ちくたびれて爆発しそうだよ?」

「ええ。始めましょう」

 部長の加奈がうなづき、真実は嫌がる斎を引っ張り出し(チームワークに乏しい斎を引っ張り出すのは、もう真実の役割になってしまっている)。



 かくして、四十六名という過去最高の参加人数で迎えた美術部の新入生向け体験入部兼作品展覧会は、幕を開けた。

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