現代の錬金術師

「ケニー! 留学するって、どういうことなの?!」


 ドン! と大きな音を立ててドアを開け、飛び込んできたのは、輝くような金の髪の、美しい少女。


「……シア、レイディがはしたないぞ」

 室内にいた二人のうち、年かさの男性が、苦笑いをしてたしなめる。

 公の場であれば、もっと厳しくしかるところだが、今は自宅、そして、そこにいるのは息子も同然の、愛弟子一人。そう遠くない将来、愛娘の夫となり、名実ともに息子となる青年である。

 その将来の夫の一大事に血相を変えて飛び込んできた愛娘――シアの様子に、その愛情の深さが知れて、なんとも微笑ましく感じてしまうのは父親の甘さか。


「……だって、いきなり留学なんて……。次の秋には、博士課程ドクターコースでしょう? 今更留学なんて」

「だからだよ。論文も研究も一区切りついて、今が一番余裕があるからね。この機会に、分子工学の先端を行く諸外国の研究にも触れたいんだ。英国こことは違う視点で興味深い研究をしているところがいくつもあるからね」

「それは……研究が大事なのは、分かるけど……でもやっと、ケニーと同じキャンパスで学べるようになったのに……」

「秋までには戻るから。たった半年だよ」

「半年も、よ。ケニーは夢中になると、メールも返してくれないじゃない!」

「ちゃんと返すよ。約束する」

「嘘! 信じられないわ」


「……シア。ケニーは分子工学の世界で、すでに頭角を現している。研究に夢中になるのは、喜ばしいことだ。お前だけに夢中になってくれる凡庸な男がよいのならば、今から別の相手を見つけてやろうか?」

 父親からの辛辣な言葉に、シアはグッと黙り込む。ケニーは父の愛弟子であり、研究の大切なパートナーだ。その道を妨げるのは、父の研究をも妨げるに等しい。優しい父親ではあるが、研究者としての厳しい側面も知っている。ケニーの将来のためにならないと考えれば、たとえ愛娘とはいえ、結婚を許してはもらえないだろう。


「……わかりました。それで、どこへ行くの? フランス? アメリカ?」

 なるべく近い場所がいい。アメリカでも東海岸なら飛行機ですぐだ。


「ああ、日本だよ」

「日本ですって?! 地球の裏側じゃない!」

「直行便なら十二時間だよ。そこまで遠くないよ。日本からだって沢山留学生が来ているじゃないか。シアの友達のエマだって、日本人だろう?」

「それはそうだけど……」


 理工学系の学科しかないアイシス工科大学だが、女子留学生が意外と多い。昔はもっと少なかったという。エマは「リケジョが増えているからね」と話していた。「リケジョ」というのは日本語で「理工学を学ぶ女性」という意味らしい。

 ということは……留学先にも、女性が多いということでは?


「……ケニー、絶対、浮気しないでね?」

「シア、何を心配しているんだい? 僕が君一筋なのは知っているだろう? 十年前出会った時から、僕は君の『オックスフォード・ブルーの瞳』に囚われてしまったんだよ」

 シアの、深い青色の瞳を、ケニーは『なんて綺麗なオックスフォード・ブルー』と讃えてくれる。

「私こそ、あなたの『黒玉ジェッドの瞳』の虜だわ」

 どこまでも深い黒色の瞳。友人のエマよりも、もっと濃い、漆黒。

「……そういえば、ケニーも、日本人の血を引いているのよね?」

「そうみたいだね。物心ついた時には、母は亡くなっていたから、実感はないけれど。僕に遺された日本の思い出は、名前だけ、だね」

「とっても、きれいな字なんだって、エマが言っていたわ。アキラ、もカヅキ、も」

 日本語で、太陽の光と、香る月、なんだって。

「『アキラ=ケネス・カヅキ』なんて、ケニーにぴったりの名前だって」

 ケネス……ケニーの本名。ケルト語で「美しい者」を表す言葉だ。

「ケニーそのものだって。……私も、そう思う」

「シアの方がきれいだよ」


 見つめあって抱擁する若者二人に注意を促すように、男性……アイシス工科大学ジョニー=サイモン・ブライトン教授は、咳ばらいをする。

「まあ、まだ出立まで一月ほどある。別れを惜しむのは、……私のいないところで、どうかな?」

 二人は決まり悪そうに体を離し、「またね」とシアが退室する。


「相変わらずで微笑ましい限りだが、今回の目的は、シアには悟られないように」

「はい。心得ております。教授プロフェッサー


 プライベートでは「ジョン」と愛称で呼ぶケニーが、私室で公的な呼び名を口にする。それは、明確な階級差を示す意図の表れ。

「必ずや、手に入れてきましょう。極東に逃れた星たちを」


 そして、退室のためにブライトン教授に背を向けた、刹那。

 ケニーは、笑みを浮かべた。先程までシアに見せていた柔らかな笑みではなく――背筋の凍るような、冷たい微笑。その闇色の瞳が金色に瞬く。



 ブライトン教授も知らない、ケニーの――あきら=ケネス・香月かづきの真の顔。



 彼が、極東の地に降り立つのは、もうしばらく後のこととなる。

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