記憶[花金企画]

 嫌な夢を見た。


 雨が降っていた。しとしとと、雲に覆われた暗い世界で。

 べったりとして心まで侵されそうな雨を、私は窓ガラスに張りついて、じっと見つめている。そして、ふと気づくのだ。


 ――ああ、干しっぱなしだ。


 よりによって一番のお気に入りのタオルケット。ドイツ製の高いやつ。花柄のそれは雨を吸い込み、重みを増してなぜか地面に届きそうなほど伸びていっている。


 私はそれを絶望的な気持ちで見ながら思うのだ。


 ――早く取り込まなければ。ああ、また洗濯のやり直しだ。ああ……。


 だが、私は窓ガラスに張りついたまま、それをじっと見つめるだけ。手を伸ばせばすぐに触れられる鍵。ガラス戸を開ければ数秒で取り込めるタオルケット。でも私は、そうしない。


 そんな夢だった。


 ・・・


「……はぁ」


 溜息とともに目が覚めた。カーテンが閉め切られた薄暗い部屋の天井を見る。身体がだるい。頭もズキズキする。ああ……やってしまったか、と右手で眼鏡を探す――が、右手が動かない。


「……?」


 私は、目をグッと細めながら右手の上に乗っている何かを見る。


 温かい。重い。なんだか動いている。


 眼鏡のない視界で、それが人であるらしいことだけは分かる。さらに顔を近づけるとこげ茶色の塊が確かな輪郭を伴って人の顔を作り出していく。


「や、まだ……!?」


 同じ部署の山田仁志やまだ ひとし、二十六歳が、なぜ私のベッドで私の腕枕で気持ちよさそうに眠っているのか……。


 ――記憶がない。


 私は山田を起こさないようにゆっくりと右腕を抜き取って、まず眼鏡を掛けて、昨日の惨状を確認する。


 テーブルの上に置かれた空き瓶、空き缶、空きペットボトル。コンビニでバカ買いしたのであろうおつまみやお菓子類。床に散らばった山田の背広にワイシャツ……。


 ――シャワー浴びよう。


 頭をスッキリさせるにはそれしかない。私は、ベッドに手をついて立ち上がろうとした。


 だが、身体は私が意図したのとは反対の方向へと引き寄せられる。背中に温もりを感じながら、お腹に腕が絡みついてきた。低い声が聞こえる。


「おはようございます。先輩、どこ行くんですか」

「シャワー……」

「ふーん」

 山田は意地悪そうな声で言う。

「また、逃げんのかと思った」

「私の家なのに、どこに逃げるのよ」

「あんた、得意じゃん。逃げんの」

「……とりあえず放してくれる?」


 先輩を先輩とも思っていない物言いにカチンとは来たけれど、今は言い争っている場合じゃない。なにせ、私は昨日の記憶が一切ないのだ。大失態を犯している可能性だってゼロじゃない。できれば、なにもなかったと言って欲しいし、何事もなかったように黙って帰って欲しい。


「覚えてないんだ?」

 私の願いと裏腹に山田は核心をついたことを言う。そういうとこだぞ、山田。

「ねえ、覚えてないんでしょ?」


 返事をしない私に、肯定と受け取ったのか、痺れを切らしたのか。山田が言う。


「会社の後輩に手を出しておいて」


 ああ、終わった。私は目を瞑る。頭痛を抑えながら、深く息を吸って吐く。

「……ゴメン、山田。昨日の夜、部署の打ち上げから記憶がないの。ひどいことしたとは思ってるんだけど……どうか忘れてくれないかな」

「……」

「……山田、くん?」

「嘘だよ」

「え?」

「なにもなかった」


 私は思わず振り返って山田を見る。おそらく険しい顔をしていたのだろう。山田が続ける。


「部署飲みして、宅飲みして、みんな帰って、あんたはご機嫌に酔ってて」

「え? みんないたの?」

「いた」

「……あなたは何で帰らなかったの?」

「酔いつぶれたフリしてた」

「なんで?」


 私の質問に、山田がため息を吐く。

「そういうこと聞くから行き遅れるんだよ」

「関係ないでしょ!?」

 まだピチピチの三十八歳ですしね!?

「……それに、なんであなたそんな格好してるのよ」

「ああ、これ? あんたに、スーツを酒まみれにされたんだよ」

「え」

「とりあえず脱いで、シャワー浴びて帰って来たら、あんたが幸せそうに寝てるから。腹立って、俺もベッドに入っちゃった」

「……つまり。なにもなかったのね?」

「そう言ってるじゃん」

「よかった」


 胸を撫で下ろしていると山田が起き上がる。

「そんなに、あからさまにホッとしなくてもよくない?」

「え?」

「俺があんたの大事な洗濯物いつでも取り込んであげるって話」

「――え?」


 ふと、部屋着の上に被っているのが大好きなタオルケットであることに気づく。


「昨日……雨降ってた?」

「降ってた」

「洗濯物見て、私、泣いてた?」

「なんだ覚えてるんじゃん」

「……夢じゃなかったんだ」

「そうだよ」


 そう言って山田は私を抱き締める。


「それから?」

「……それから」


 しとしとと降る雨が大地に少しずつ染み込むように記憶が戻って来る。


「山田のことがずっと好きだったって言った」

「うん」

「でも、オバサン過ぎて、無理だって諦めてたって」

「うん、それで?」

「そしたら……山田が」


 ――諦めなくていいんだよって。


 今みたいに、私にキスしてくれたんだ。

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