罪[花金企画]

 いつも以上に日差しの強い日だった。今日みたいな日は特に客が少ない。


 店内には四十半ばの女性客が一人だけ。彼女はコーヒーを頼んだが、口をつけずにずっと読書に集中している。私は、どうせ他に客もいないのだからケーキでもサービスしようと用意していた。コーヒーを飲む気になるかもしれないし、と。


 カランと軽い音を立てながら喫茶店の扉が開いた。


 むわっとした外の熱気が店内に流れ込んできた。一瞬眉間に皺を寄せてしまったが、熱気のせいではない。扉を開けた客が、扉を開け放したまま立っていたからだ。皿を取り出して、私は客であろう人間に声を掛けた。


「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」


 声を掛けられた男性は曖昧な笑顔だけを見せた。

 しばらくすると、若い女性が三歳くらいの男の子の手を引いて店内に入って来た。そこでようやく扉が閉まった。外の喧騒が締め出され、店内に静けさと涼しさが戻って来た。


 子連れの家族は、窓ガラスの前の席に座った。二十代くらいに見える女性は「クリームソーダを」と言ってから、子どもを指さす。

「この子にアイスと……ジュースってなにがありますか?」

「オレンジ、りんご、ソーダもありますよ」

「みっくん、どれがいい?」

「りんご」

「じゃあ、りんごジュースで。ねえ、あなたは?」

 女性にメニューを渡された男性は受け取ったが、それを開くことはなかった。

「ブレンドを」


 私がカウンターに戻ると、女性がおもむろに話し始めた。

「ここ、素敵な雰囲気ね。こんなところ知ってたなんて、意外」

「そうかい」

 男性は口ひげを小さく揺らした。穏やかなその笑顔はしっかりとした皺が刻まれており、中年と初老の間くらいに見えた。下手すると女性の父親、子どもの祖父にも見えそうだが――そういう家族もまあ珍しくはないだろう。


 冷凍庫からバニラアイスの容器を取り出した。未だ読書に集中している女性客へのサービスは一旦カウンターの脇によける。


「お待たせしました」


 子どもはアイスに目を輝かせ、女性も久しぶりのクリームソーダだと喜びながらストローに口をつけた。よっぽど喉が渇いていたのか、緑色の液体が気持ち良いくらい勢いよく吸い上げられていく。その隣で子どもも、奇術のようにバニラアイスを消し去っていた。

 男性はその様子を微笑ましそうに見ながら、ゆっくりとブレンドを口元に運ぶ。


 窓から差し込む光が少し和らいだように見える光景だった。


「さあ、そろそろ行こうか」

「そうだね。みっくん、お口拭いてね」

 女性は鞄を開く。

「あれー?」

「どうしたんだい」

「ウェッティ忘れちゃったかも」

「じゃあ、途中の薬局かコンビニに寄るかい?」

「ううん。今みっくんのお口拭きたいの」


 私はそれを聞いて新しいおしぼりを取り出そうとカウンターの後ろを向いた。


「これ、良かったら使ってくださいな」

「えっ。いいんですか?」


 ふり返ると、先ほどまで読書していた中年の女性客がウェットティッシュを家族連れの女性に差し出していた。


「アルコール入ってないタイプだから、お子さんにもきっと使えるわ」

「ありがとうございます!」


 若い女性客はウェットティッシュを受け取って、子どもの口の周りを拭いた。男性は、中年の女性に軽く一礼をした。彼女もそれを返した後、自分の席に戻って行って読書を再開した。


 子連れ客が帰った後、私は皿にケーキを載せて、中年女性のテーブルに向かった。


「こちら、よろしければ店からのサービスです」

「……」


 反応のない女性の顔を失礼ながら覗き込む。


 ギョッとした。

 女性は開いた本で顔を隠すようにしていたが、ポタッ、ポタッと涙が零れ落ちていた。私は黙ってケーキを置いて、おしぼりを取りに戻ろうとした。


「すみません、もう随分と涙もろくなってしまって……」

 そう言って女性が手にしていた本を掲げる。


「ああ、本ですか」

 熱心に読んでいたものな、と目に入ったタイトルは一昔前に流行った冒険ファンタジーものだった。記憶の限りでは泣ける描写はなかったように思える。


「ケーキ、ありがとうございます。ここのケーキ好きなんです」

「以前もこちらに?」

「ええ、先代の方がやってらした頃の常連なんです」

「そうだったんですね」


 女性は記憶を辿るように窓ガラスの方を見る。


「主人とよく来ていたんです。五年ぶり、いえ十年ぶりかしら。まだこのお店があってよかった」

「ご主人と」

「ええ、別れてしまいましたけど……元気そうでよかった」


 女性は鞄からハンカチを取り出して目元を拭った。


「彼は子どもを望んでいましたから」


 まさか、と思い返す。あの子連れ家族は――


「望まなかった、それが私の罪なんです」


 女性はポツリとそう言ったきり黙って、ケーキを平らげて帰った。時たま、ズズッというような音が聞こえたが、私は片づけに集中しようとしていた。


 カランという音と少し落ち着いた熱気とともに女性が去った後、彼女のテーブルには空っぽの皿と手つかずのブレンドコーヒーが残されていた。

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