付箋

金子ふみよ

第1話

 今年も三月二十一日がやって来た。

 賽の目に二から六のない双六を進むような一年三六五日の中の一日であるのに、彼にとってその日はやはりやって来る日だった。

 朝起きてから落ち着きもなくあちこちをキョロキョロと見た。ベッドの下、リビングの隅、トイレの天井などなど。見やってはほっとしたような目つきになっていた。安堵ではない。見やるたびに彼の眼は重そうになっていたし、それが気分的なものでしかないとしても肩や首にずっしりとした感じが催されていった。

 とはいえ、薄曇りのその日にまったく爽快感がないということでもなかった。高校を卒業し、県内とはいえ市の違う大学へ通う。一人暮らしも始まる。そんな高揚感が三月二十一日にあってもやはり起こっていた。

 昼前一度、家を出た。母の写真を飾る仏壇に手を合わせてから外出をする習慣はいつから始めたのか、彼には思い出せなかった。

それは本を買うとか、アパートに持って行く雑貨を見つくろうとか、そういう具体的な理由のためではない。入学式用のスーツはすでに買ってある。先日、父と休日に久しぶりに買いに出たのだ。父が見立てたネクタイの柄や色は母が好んで選びそうなものだった。食器類は家にあるものを一通り持って行くことになったし、家電類も整えてあった。

 だから、その外出は散歩と見えそうなものだが、三月二十一日という日が気になっていたから外に出たと言った方がよい。

 なぜなら、この三月二十一日には、彼の眼前に一枚の付箋がどことなく現れるからである。

 それが起きたのはもう何年も前になる。小学五年だったか四年だったか、彼は五年だった気がしている(それにしてはもうちょっと遠い過去のような感じもしていた)。その一か月ほど前に母が亡くなったからである。父が通夜でも葬儀でも泣いていたことを覚えている。寡黙だが穏やかな父が他の人をはばかることなく感情をあらわにしていたのが彼にとっては驚きだった。彼も悲しかった。涙は出なかった。彼を見た大人たちはさぞかしショックで泣くに泣けないのだろうと声を枯らしていた。あんなにやさしく育てていたのだから、母のその愛情が彼に伝わってないはずはないと。確かに母は優しかった。というよりおちゃめだった。天然の気質もあったのかもしれない。四十歳になってようやくできた子が彼である。手塩にかけてというのはこういうことなのだろうと誰が見ても疑いようもなく、彼にしても母を毛嫌いする原因も感情もあるはずがなかった。それでも彼は泣かなかった。泣けなかったのではない。「人の生とはこういうものだ」という達観があったわけではないが、それに近い考え、無常観のようなものが彼の中に早々と芽生えていたのもまた事実である。納骨も終わり、親戚も家からいなくなり、父と二人だけの生活が始まった。学校に行くと先生から「辛いことがあったら何でも言っていいんですよ」と同情をもらった。近所の人も時折差し入れをくれた。学年がもうすぐ上がるのだなあと、たぶん国語か何かの授業中に思って、その日帰った時である。玄関に入ると彼は泣いた。なぜか理由はいまだに分からない。ただ、早熟の死生観に満たされたせいで感情を欠落した人間ではないと自分で自分を慰めることができたという記憶はある。気付くと、父が慌てて声をかけていて、泣いたまま気を失ったのか寝てしまったのかしていたのだった。

 それから、見えたのである。初めての付箋が。図書館の帰りの道すがら学校へ寄った。彼は飼育係だったのだが、家庭の事情を酌んで他の児童に替わってもらっていた。その間に飼っていたウサギが死んだのである。校庭の端に小さく盛られた土の下にそのウサギがいると言う。彼は何となくそこへ向かった。手を合わせようと思ったからである。アイスの棒よりちょっとだけ大きな棒が土に刺さっていた。春休み中に先生方がそこを掘り起こして死んだウサギを処分することは耳にしていた。その前にせめてもの元飼育係としてせめて慰め位を果たそうとした。その小動物の小さな墓の真上に、淡いピンク色の付箋が一枚浮いていた。彼は目を凝らした。それから辺りを見渡した。それでも彼はどことなく落ち着いていた。付箋をつまみ剥がすように手を動かした。すると微妙に甘い香りが鼻の中に入って来たかと思うと、その付箋はほのかな光の粒子に化して消えてしまったのである。途端、周りの空気があまりに軽やかになり、墓を中心にして同心円状に柔らかい風がすうっと引いて行くような感じがした。それらが収まると彼は我に返った気になって手を合わせた。墓にではない。空に向かってである。その場所から春、花が咲いた。可憐な、瑞々しい薄いピンク色の。誰も種を植えた覚えはないそうだ。

 それ以来、三月二十一日になるとどこかに付箋が見え、彼は剥がすようになったのである。

 そして今年。彼はいまだに見えない付箋を探すように歩いた。探すようにというのは正確ではない。まるで引かれるようにである。花束を手にした彼が辿り着いたのは一家の墓の前だった。付箋は見えなかった。花を手向け、合掌をした。米はカラスなどが食べに来るから、線香は火事になる危険性があるからと、墓地の入り口に看板に従って遠慮するようにしている。だから墓に供えたのは花だけである。合掌を解き、目を開けた。墓の前に一枚の付箋が浮かんでいた。その色は彼が初めて見た色だった。彼は付箋を剥がした。通例なら、すぐに付箋は消える。それなのに今年の付箋は消えない。実物の付箋と同じく掌に残ったままなのだ。彼は首を傾げた。それもしばらくも続かなかった。墓参りの人の声が遠くから聞こえたのである。彼はスマホの裏にその付箋を貼り、枯れた花を新聞紙に包んでからビニル袋に入れ、一礼してから墓を後にした。

 帰路、彼は考えていた。どうして今年に限って付箋は剥がしても消えなかったのだろう。そもそもどうして付箋が見え、それを剥がすと消えるのだろう。付箋は普通気を留めておきたい場所や事柄を残しておくために目のつくようにしておくのだ、だとすれば三月二十一日にだけ現れて剥がすと消える付箋はいったい何を注目するために貼ったのだろう。貼ったとするならばそれはいったい誰なのだろう、などなど今日の現象から、本来的使用目的から起因する付箋現象の根源まで疑問が浮かんできた。そもそも後者などは初見以来すぐに浮かびそうなのだが、なにせ当時の事情が事情だけあって彼がそんな素朴な疑問を持つことはなかったのである。

 ショルダーバッグからスマホを取り出した。あの付箋がついている。

「もしかして、剥がして消えないってことは、どっかに貼れってことなのか」

 直感がかすれた声になった。彼はこれまで見てきた数々の付箋のことを思い出した。工事中の海岸、整備されたトレッキングコースの中間地点、お寺、由来不明の古い石碑、営業を停止した老舗旅館、化石採掘中の露頭。付箋が浮かんでいたところや、そればかりではなく付箋の色や、時にして文字らしきものが書かれていたこと。それから、付箋を剥がしてしばらくしてから、立て続いて起きていた事故が起きなくなったと報道されたり、歴史的な貴重さが判明したり、ある霊能者曰く霊的地場が安定したり、新発見の化石が採掘されたり、などといった未知だったことを知ったことも。

「なんで今年ばっかり」

 スマホをしまった。家の前に来たからである。狭い庭にある倉庫の横に枯れた花の入ったビニル袋を置いた。燃えるゴミは明日でもないからステーションに出しておくわけにもいかないのだ。

 家に入り、お茶を淹れた。テレビをつけないリビングでソファにもたれかかりながら付箋のことを考えた。どこぞの誰とも知れない存在が貼った付箋を剥がした上に、それを今度は自分が貼る、一体どこに貼れと言うのだろうかと。名所旧跡とかいう類の場所をとも思ったが、気が乗らなかった。あるいは最近取り壊された施設とかも思い出してみたが、やはり違う感じがした。

「場所じゃないのかな」

 つぶやくと、ふわっと一つ浮かんできた。喉が鳴り、いがらんでいた感じがなくなった。

「いやいや、それは……」

 高校を卒業し、大学生になる。この現状で彼が気にしていること。心残り。

 彼は確かめてみることにした。ああでもないこうでもないと悶々としているより試せば成功でも失敗でも気は晴れる。

 スマホをタップした。

 二時間後、彼はカフェにいた。目の前には同級生の女子がいる。二年生から同じクラスになった彼女とは勉強のことや、違う部活だったけれどその活動のことや、あるいは日頃の過ごし方なんかでよく話すようになっていた。特別に意識し出したのは受験が本格化した秋口くらいである。とはいえ、違う大学へ進学希望というのは知っていたし、関係性を今さらとなんのかんのと言い訳を並べてこの時期に至り、気のせいとして片付けようとしていた。付箋がそうだとは断言できないけれど、それをいいことにやはり告白しておこうと決意したのである。

 一言二言何気ない言葉のやり取りをした後で彼は思い切って心情をゆっくりと静かに吐露した。彼女は目を丸くしてからパチクリさせると一口啜って、「言うの遅くない?」。悪戯っぽい表情をした。彼が返答にあたふたしていると、「私ね、同じ大学に行くことにしたんだよ、秘密にしてたけど。だから、よろしくね」。にっこりと、それでもやはり戦略勝ちしたみたいな表情をした。彼はほっとして一口どころではなく一気にブラックコーヒーを飲み干した。おかわりさえ注文しに行きそうな気分になった。「付箋はどうするかな」と思い浮かぶと、彼女からこう言われた。「ねえ、ポストイット持ってない? 今日の欄に記念に貼っておこうと思って」。彼女は手帳を開いた。

 彼は微笑んでから、スマホを見せた。彼はそこについていた白い付箋を剥すと彼女に渡した。

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