一滴
何年か前、新緑のころに、知人と神奈川県のある山へハイキングに行った時のことである。その日、知人と私は山頂付近の観光街の登山口から尾根づたいに、目的の山を目指して山道を進んだ。天候は高山ならではの不安定さで、左に雲が現れたと思えば瞬く間に強風と濃霧で視界が悪くなり、あえぎあえぎ歩いてゆくとやがて風も雲もない青空である。知人は突風の中で愉快そうに苦笑していた。
知人は私より三十も年上で、少年時代を自然があまり幾何学的に征服されてない田舎に育ち、青年期に国の高度成長を体験し、壮年期を零細企業の社長職で乗り切り、バブルがはじける直前で会社を畳み、初老の手前で奥さんと共に私が勤務していた会社の社員寮の賄いに転じた人物だった。好奇心が強く、自然との付き合いも上手く、都会の遊びや街の歩き方にも長けた粋人で、私たちは暇さえあれば共によく外へ出掛けて行った。私の好きな人生の先輩のひとりだった。
山歩きの途中途中で、知人は私に山の草木の名をたくさん教えてくれた。私は出身が田畑だらけの田舎町であるにもかかわらず、自然の緑や樹々の知識には疎くて、稲やドジョウやナマズ、あるいはカブトムシのことくらいしかわからない。七草なずなも唄ばかりで、歌詞にあるような野草を実際に指差してみようにも、名前と実物が一致しないのである。恥ずかしい限りだった。この日の山歩きで私が唯一知っていることと言えば、写真で見て憶えたブナの樹ぐらいなものだったろう。
目的の山が近くなるにつれ、そのブナの樹が目立ってきた。他の山でたくさんの樹々を眼にすることはあったが、ブナの実物を見るのは今回が初めてだった。木肌の緑青が重々しい主張をしている。にわかに、高いところを歩いているのだなという意識が起こってくる。
山頂の山小屋まで、北側の急峻な岩肌を越えてあと少しというところ、一本のブナが、待っていたぞと言いたげに岩と岩のあいだから天に伸びていた。私はそれに見とれた。樹の葉の緑は深く、木肌は湿っている。
私たちは山頂の二軒ある山小屋の、手前の一軒で休んだ。ここより少し低い場所に見える山小屋は作家の新田次郎の作品でも、あるいはテレビでもお馴染みで、小屋のあるじは有名人であるそうな。晴れた日には富士山を小屋の左手に眼にすることができるらしいのだが、あいにくこの日、富士の方角には厚い雲がかかって霊峰は望めない。
短い休憩を終えた私たちは屋根の低い山小屋の脇の尾根道を降って行った。樹々の肌は湿っているのに山道はあまりぬかるんではいなかった。山を少し降りたころ、木陰が深くなった。山は登りより降りのほうがキツイというのを脚の脹脛はよく知っているらしい。ひと息つき、歩き出そうとして視線の先のわずかに平らになっている山道を見れば、そこにはひとつの小さく光る水溜まりがあって、何処の樹の葉から落ちているのかわからない水滴がその一点に、静かに一粒ひとつぶ滴って波紋を作っている。風はなかった。私たちが山道を歩き始めたころに流れ吹いた突風と雲は、雨にならない程度の水分を樹々に与えたようである。山々の無数の木の葉には溢れるほどの水が蓄えられ、ひたりひたりと山肌に落ちている。私たちは、ある河の百年ほど先の水源を見ているのだと思った。工業と農業、産後の産湯と盛り場のヨッパライ、そうめんの水切りや茶道のお手前、洪水と保水、渇きと癒しなど、水に関わるすべての事柄について、ここにひとつの始まりがあるように私には感じた。悠久と雄大、素朴と静寂と空白。私は震えるような体験にしばらく言葉が出なかった。歩き疲れて脚の筋肉が張りを見せなければ感じることのできなかった現象かも知れない。まちがいなくこの日、山に入らなければ出会えなかった光景である。
夕方ちかく、私たちは林道に出て、バスで駅までゆき帰宅した。家に戻ってからもあの波紋の印象は脳裡から抜けず、布団に入ってからもしばらく眠れず興奮していた。
この体験からしばらくしてちがう山に登ったが、あの日のような光景には二度と出会うことがなかった。そののち何年かが経ち、同じ時期に、同じ山に登ってはみたが、自然はあの日と同様の偶然を表現してはくれなかった。
山の体験から数年後、私自身には苦い経験が重なった。身動きの取れない状況を何度か味わった。ゆき詰まるそのたび、かつて見た山の水滴が想起されてきた。憧憬ではなさそうであった。自身の心が何かの決意を欲しがっているように思えるのと同時に、それは自分の精神にとっては苦痛でもあった。この世界から、このまま自分がいなくなるとしたら、あの時の山や樹が見せてくれた光景は何の意味があったのか。自然は私に何をせよと言うのか、とさえ思った。あの日の現象は、自身のボロボロに砕けた精神を想う時、呼んでもいないのに何時でも脳裡に現れる。
山歩きからずいぶん経ったいま、あの時の一粒の水滴は、地中のどのあたりにあるのだろう。
(了)
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