雑話の小箱

大島ざらん

音無海岸

 遊んでばかりで職務をなおざりにしてきた会社の社長が、組織から追い出されて自宅でおとなしくしていた。社長はただの老人になった。

 老人はときおり白髪の奥さんと浜辺に出て、海岸通りを散歩しては砂浜に腰を下ろし、

「どうしたもんかね」

 などと呟いて、夫婦ふたりして海の家にゆき、ビールを口にしながらサザエの壺焼きなどを食べて水平線に沈む夕陽を眺め、坦々と家に帰るのである。

 ある日、老人がひとりで海岸通りを歩いていると、上空からひと抱えもありそうな黒い音符がふたつ、チーン、カーンという乾いた音を立てて落ちて来た。

 ほおっておくわけにはいかないらしい。

 このままではどうしようもないので、老人は友人から軽トラックを借りて来て、やや重いその音符をトラックの荷台に載せ、家に持ち帰った。

 金属製のその音符は中が空洞らしく、木槌で叩くとグワーンゴワーンという豪放なようで控えめな響きを立てる。

 とりあえずその日の晩は夕食を食べてお茶を飲み、奥さんに「変な物を拾ったよ」などと言ってみたりして眠った。


 翌朝、老人が寝ているところへ奥さんが起こしにやって来て、

「あなた、たいへんです、たいへんです、起きてください、あなた」

 そう言いながら老人の肩を揺さぶった。

 奥さんに促されて寝ぼけ眼の老人が縁側に出てみれば、小さな庭の青い芝生の上に無数の黒い音符が転がっていた。夜のうちに空から落ちて来たらしい。

 老夫婦はどうしたらいいのかわからないゆえそのままにするしかなく、処分しようか好事家に渡そうか悩みながら数日が過ぎた。

 ある日の夜中、夫婦が寝ているところへ、庭から、グワーン、ゴワーン、ドンガラガーンという音が鳴り続けてふたりは眠れない。

 それか幾日か続いてついに奥さんが夫に訴えた。

「あなた、私はとても眠れません。頭がおかしくなりそうです。あのグワーンゴワーンがいまでも響いて、身体がこわばってご飯が喉を通らないんです。あなたは私がやつれながら朽ちてゆくのを黙って見ているのですか? あなた、どうかあの音符をなんとかしてくださいましな。このままだと私は……」

 老人は妻の困った顔を見て悲しくなり、とりあえず大きな秋空色のビニールシートを持って庭に降り、それを広げて音符たちを隠してみた。するとシートの下から、グワーンガラーンドンガラガーンと、いつもより大きな音がした。怒っているみたい。仕方がないので覆っていたビニールシートを畳んで物置にしまうと、庭の音符たちは、チリ、カラ、コン、キンと、ガラス球がひび割れるような音を立てた。おとなしくなったようだ。

 老人は音符たちに、

「空に帰りたいのか?」

 と訊いた。

 すると音符たちは芝生の上で身を揺らしてザワザワと騒いだ。気に入らないようだ。

 老人が、

「海岸に帰りたいのか?」

 と訊ねると音符たちはいっせいにリリリリリと鳴った。大勢の園児たちがひとりの保母さんに駆け寄って行くような韻があるので彼らは嬉しいらしい。


 老人は友人の市長に電話して、落ちて来た音符を使用したオブジェを海岸通りに建てられないかと相談した。

 一ヵ月ほど経ち、市長から連絡があって、

「やってみなさいよ」

 と言ってくれた。市長が老人の案を議会に通したらしい。そんなふうにして市が建設計画を許可した。

 老人は頭の中に構想があったので、知人の音楽家を自宅に呼んで共にデザインを練った。

 ふたりが考えたアイデアは、数本の細いそれぞれ長さの異なる鉄パイプの先に落ちて来た音符を取り付け、巨大な楽器にして海岸通りの歩道に設置する。ある日ある時にそれを何かで叩いた人たちが、これは旋律を持った立体造形物であることに気づくというものである。

 音楽家はオブジェ専用の曲を作曲してデザイナーの許へゆき、設計図を描いてもらった。

 町工場に依頼してオブジェの制作にかかってもらっていたころ、市長から連絡があって、工事費用の一部と、音楽家やデザイナーへの報酬が予算オーバーで、市からお金が下りないという。とても議会を説得できないとのことで、残りは篤志家(とくしか)からの寄付で賄えないかと言ってきた。

 老人は会社を経営している自分の息子に頼んで借金を組み、お金を用意したがそれでも足りない。老人はかつて自分が所属していた会社の役員のひとりに頭を下げて費用を工面した。老人はこのオブジェをどうしても造っておかなければならない気がしたのだった。何のためにそれを成し遂げるかなど、言葉にならない。行動することしか思い浮かばない。

 ひと月後、海岸オブジェは完成した。頭に音符を乗せた長さのちがう幾本もの鉄パイプが海岸通りの歩道に並んだ。


 それから何年かして老人夫婦は海岸に顔を出さなくなった。老人は妻を残して死んだのである。

 オブジェはときおり地元の小学生がなんとなく数本だけ叩きに来たり、手のひらで一本一本撫でて走り抜ける一輪車乗りの女の子がいたりした。好いた男子に想いを告白する女子高生、オブジェに凭れかかる恋人同士、バスを待つ野球少年たち……。月日が過ぎるにしたがって「音符の前で待ち合わせ」を合言葉にする市民も増えたりして、かつて老人宅に降りて来た音符たちは海岸通りの顔になっていった。

 ある日、夕方雨が降るとの天気予報を知った小学生の男の子が、傘を持って海岸通りを駆けて来た。男の子は硬い傘の先を海岸オブジェの一本一本のパイプに当てながら走り抜け、学校のあるとなり町へむかう。

 その時パイプオブジェが奏でた音楽は、


 大きな大きな広い海

 浜辺のカニは横歩き

 コブシメサンマは波の下

 いとしいあの娘とふたりして

 熱い砂浜ゆうらゆら


 という流行歌のメロディーだった。

 男の子は何気なくその音楽が耳に入ったのかも知れない。毎朝ここに走り寄ってみては、硬い筆箱などでパイプを叩いて行った。

 そんな男の子のうしろ姿を向かいの歩道から眺めていた腰の曲がった白髪のおばあさんが、

「あなた、鳴っていますよ」

 そう言ってやさしく笑んだ。

 空から落ちて来た音符たちはやっと居場所が見つかったらしい。


 波騒には常に重みがあって、風に晒された音鐸の韻は呟きに似て緑蒼の海に呑み込まれそうなのに、叩いた人々の胸にかろく弾けて波音を忘れさせるのだった。


               おしまい

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