壊れたあなたのマクガフィン
枯木冬人
終話
私は、ある教会で産まれた。父と母は聖職者で、もちろん私も聖職者になるためだけに育てられた。幼少の頃、両親は私に何度も何度も聖書の読み聞かせをしてくれた。聖書の教えを遵守し、それに救いを見出すことが人間の正しい道だとよく父は言っていた。私が3歳になった時、聖書の一説を少しだけ暗記して母に話した。母は半ば半狂乱したように喜んだ、この子は神の子だと、この子は神に仕えるために産まれてきた子だと。私はそれが嬉しかった。母と父が喜ぶ姿が、ただただ眩しく見えた。その時に強く私は思ってしまったのだ、他者のために何かをすることはきっと素晴らしいことなのだろうと。
時が経ち、私は6歳になった。未だに聖書の暗記は続けていたが、ある時聖書の一箇所を間違えてしまったのだ。ほんの些細な間違いだった。その間違いを即座に把握した母は、私を素手で叩いた。母は私に向かって心底怒り狂ったかのように烈火のごとく掌を私の頬に叩きつけた。私は間違えてしまったから、こうなるのは当然なのだ。一通り叩かれたあと、母は少し落ち着いた様子だったので叩かれた方と逆の頬を出した。私だってマゾヒストではないから、叩かれたい訳では無い。ただ、聖書にそう書いてあったからそうしただけだ。そこに自分の意思なんてなかった。母は大いに喜んだ。それでこそ私の子だと、優しく抱きしめてくれた。その抱擁のなんとも暖かかったことか、私はどうしてもその温もりを忘れることが出来なかった。叩かれて腫れた頬を優しくそっと母がなぞり、これは戒めとして覚えておきなさいとにこやかに微笑みながら、母は医療箱を私の手には届かない高さの物入れにしまった。
そんな私にも、とうとう学校に行かなければならない年齢が来てしまった。両親は私に鉛筆と消しゴム、そしてバッグを買い与え、そこで学問を学んできなさいと言った。本当は学校なんて行きたくなかったけれど、両親の喜ぶ顔が見たくて通うことにした。学校は私にとっては心の底からつまらない場所で、本当に息が詰まった。ただ、テストで満点をとると両親が喜ぶと思ったので勉強だけは必死にやった。ある日、隣の席の子が私に勉強を教えて欲しいと頼んできた。クラスでの私は成績がよく、聖書を遵守していたので他人とのコミュニケーションは当たり障りがなく、よく頼まれ事をされることがあった。私はいつものように優しくできるだけわかりやすいように教えた。その子は少し間を置いてようやく理解したのか、私に感謝の言葉を述べたあと私の目を見てこう言った。
「あなたは、とっても優しい。だけど、どうしてか、いつも少しだけ窮屈そうに見えるわ。どうしてかしら、いつもなにかを恐れているようにも見えるの。」
私はただ困惑した。窮屈?何かを恐れている?そんなことは微塵も自分の人生で感じたことは無かった。ただ、この子の言葉を無下にする訳にもいかなかったので当たり障りなく返答をして、その子の名前を聞いた。
「あたしは、エトっていうのよ。あなたの名前はなんて言うの?」
私の名前を聞いたあと、エトはにこやかに笑った。まるで春の木漏れ日のように暖かい笑顔だった。
「あなたにピッタリの名前ね!素敵だわ、本当に。」
その日から、私にはたった一人の友達ができた。私はそれが、言い表せないほど嬉しかった。他者のために何かを尽くした訳ではなかったのに、晴れやかな気分になれたのだ。そうして浮き足立つまま私の教会に帰り、いつもの日課である聖書の暗記を始めた。文字が滑っていくようだった、目が文章を追わず頭の中は初めての友達のことでいっぱいだった。両親はそれを見抜いたのだろうか、私は腹をめいっぱい父に殴打され、吐血した。父と母は今まで見てきたどんなものよりも赤く腫れ上がるまで私の至る所を攻撃した。これはお仕置なのだと言って私に掴みかかる両親が、私には黒い靄として映った。翌日、包帯や絆創膏を沢山体に巻き付けて学校へ向かった。案の定、エトは私を心の底から心配していたがこれは私が罪を犯してしまった故のものだと精一杯釈明した。エトはそれから悲しそうな目をして私を抱きしめた。いつか母に抱きしめてもらった時とは、まるで違う抱擁だった。私は間違ったからこうなったのだ。抱きしめられる理由なんてどこにもなかったはずなのに、抱きしめられる資格なんてないはずなのに。なぜだか、私の目は涙を流していた。それからのことはあまりよく覚えていない。大方、いつものように教会へ帰って聖書の暗記をしてから床に着いたのだろう。随分昔のことだから、大まかな記憶は抜け落ちている。それでも、エトが私を抱きしめてくれた時の熱だけは、未だに私の心に残り続けている。
そうして、私は学校を卒業した。年齢はもう既に18にもなっていて、十分自立できるほどだった。しかし、私の両親は自立をよしとしなかった。私は学校に通い、エトと交流したことによって一定の自我を得てしまったのだ。記憶に残ることすらなかった他愛ないおしゃべりや、ごく普通のありふれた生活によって、私はいつの日か両親の求める完璧ではなくなってしまったのだ。それを両親は察知して、再び完璧に戻そうと考えたのだろう。私の痣は日に日に増えていった。増える痣に比例して、エトとの楽しかった記憶を思い出すことが増えた。ただ、所詮私とエトは学友というだけで、学校という小さな箱庭にいたからこそ成立した砂の城のような関係であった。ただただあの時が恋しく、地獄のような日々が続いたある日。私は逃げ出した。両親が寝静まった深夜12時頃、何を思ったか一番呪いたくなるような聖書を持って。白いワンピースを揺らしながら走る。どこに行くのか考えもせずに、この後どうしようかなんて一切頭の中にはなかったのだ。私の頭を埋めつくしているのはやっぱりエトだった。逢いたいという思いだけが身を焦がし、いるはずもないのに辺りを探し回った。走って探して、もう自分がどこにいるのかもわからなくなって、とうとう街灯が消え、空が明るくなろうかとしていた時。ふと近くのバス停にひとつ人影があった。小さな体で大きなキャリーケースを持っていたその少女は、酷く私の思い出にあったエトに似ていた。私は縋るような、祈るような想いでゆっくりとその少女の顔を見た。これは奇跡だ。偶然、あれだけ恋い焦がれた思い出の中の少女が今目の前に立っていたのだ。そうしているうちにエトも私に気づいたようで、お互い積もる話を沢山した。話を聞くと、エトも家から逃げてきたようだった。エトは腕にしていた包帯をゆっくりと解いて、自分が性的虐待されていたこと、周りの人から汚いと言われているように感じてしまうと、震えながら打ち明けてくれた。そうしているうちに始発のバスに乗り、私はエトと一緒にどこへ行くかも分からないバスに乗った。道が悪く、ガタガタと揺れるバスの中で、私はエトと肩を寄せ合い深い眠りについた。バスの運転手さんに起こされて、目が覚めた時、もう終着点に着いていた。どうやら眠ってしまったのは私だけではなかったらしく、運転手さんは呆れたような素振りでエトのことも起こしていた。よだれを垂らしながら寝ていたので、よっぽど疲れていたんだろう。その寝顔が愛らしくて愛おしく、バスから降りたあともエトのことを見つめていた。ここは海が近いのか、潮の香りが漂い、夕焼けには彼女のブロンドカラーの長髪がまるで太陽の光が反射して光っている水面のように輝いていた。ここで二人っきりで暮らそうと、私とエトは子供みたいにはしゃぎ回って海へ向かい、砂浜でめいっぱい笑った。その時間だけは、何もかも全部忘れられて、とても幸せだった。はしゃぎ疲れた後、近くの村に行って、住める場所を探した。そこの村はよく流れ者が行き着く終着点のような場所らしく、私たちみたいなのは少なくなかったようで、大家さんは何も言わずに部屋を貸してくれた。そして夜になって、初めて同じ布団にエトと二人でくるまった時、エトは自分が虐待されてきた話を細部まで語り出した。彼女の震えている手を包んであげることは、私にはできなかった。彼女の手は細く、触れてしまうだけで崩れてしまいそうな儚さを纏っていた。まるで精巧なガラス細工のようなそれは、私が息を吹きかけるだけでヒビが入ってしまいそうな気がして、少し呼吸を躊躇しながらも恐る恐る彼女の手から目線をゆっくりと下げていく。彼女の腕は、手をは打って変わって純白ではなく、青あざだらけだった。もちろん腕のほとんどは純白で降ったばかりの雪のような冷たさを孕んでいたが、所々にある大きさがまちまちの青あざがコップに垂らされた一滴の墨汁のように全てを台無しにしていた。私は酷く傷ついた彼女を抱きしめることができなかった。詳細な身の上話を聞いて、震えている彼女を、私は温めることができないと、そう思ってしまったから。一通りエトが話し終わったあと、やはり私も私の話をした。ほとんど私の話はバス停でしてしまったと思っていたが、案外そうでも無いようで話してみるとたくさんのエトが知らないエピソードがあったようだ。
「やっぱり、あなたはあたしと似てる。最初に見た時から、そう思ってたの。ほら、覚えてる?あなたが傷だらけで、抱きしめあったじゃない。あの時にあたしはもう処女じゃなかったのよ。もちろん望んでそうなった訳じゃない、だから、傷だらけのあなたが、なんだかあたしみたいで。抱きしめてあげなきゃって思ったのよ。」
お互い、同じような境遇に産まれて似た者同士惹かれ合う所があったのだろう。きっと、だからあの夜に、私たちは出会えたんだ。奇跡なんかじゃなかった、あれは私たちが引き合った当然の結果だったのだ。私はそれを知った時、エトとひとつになれた気がした。彼女の寝息が私の頬に当たり、温かさを分けてもらったように感じて。エトはまた、私を力一杯に抱きしめてくれた。私が産まれてこんなに幸せな眠りにはいったことはあっただろうか、こんな幸せが一生続けばいい、なんて叶うはずのない願いを胸に秘めながら私は眠った。
そこから先は、今までの人生の欠落を埋めるような日々だった。私はその村で漁師の手伝いとして働いて日銭を稼ぎ、エトは村1番の人気の定食屋で皿洗いをして働いた。お互いが夕暮れになって家に帰り、2人では到底食べきれないような量の賄いを食卓に並べて一緒に食卓についた。あの日々は、確かに満たされていた。毎日が幸せでいっぱいで、私は昔のことなんてすっかり忘れてしまっていた。そんな幸せな日常が続いたある日、私とエトはキスをした。どっちが先にしようと言い出したかはよく分からないが、とにかく唇を重ねたのだ。エトの味がした、レモンの味かは分からないが、少しだけ酸っぱかった。呼吸が苦しくなるまでキスをした後、エトは私の指に彼女の指を絡ませてから押し倒した。肌と肌を合わせて、お互いの温みをしっかりと確かめあってから彼女が私の中に入ってくるような感覚があった。ただぬるい部屋に二人で熱を求め合い、私たちはようやく結ばれた。私たちは性質上、子供を作ることはできなかったし法律上結婚も認められていなかったが、それでもこの夜の温みが私たちを強く結び付けてくれたんだと思う。
私とエトは、25歳になった。いつものように慣れた手つきで漁の手伝いをさっと終わらせたが、気づいた時にはもう日は暮れていて、いつもの時間になっていた。そうしてエトが待っている自宅へと足を運び、ドアを開けた。いつもであれば料理を沢山作って待っているはずのエトがいない。あるのはたった一枚の手紙があるだけだった。私は気が気ではなくて、手紙を読むのに大変時間がかかったような気がした。
『あたしはあなたの事を心から愛してる。出会った時からずっとその気持ちは変わらないの。でも、あたしはもう生きることに疲れちゃって、それで最後にあなたと話したいから崖の上で待ってるわ。』
年甲斐もなく私は走った。履いてる靴がどこかへ飛んでいってしまったことに気づかないほどに一心不乱に走り、ついに崖の上でエトを見つけた。
「ああ、ようやく来たのね。待ちくたびれたわ、本当に。」
そう言いながらもにこやかと笑う彼女は、なんだか今まで見た中で一番美しく見えた。ブロンドの髪が月明かりに濡れて、一層彼女の儚さを強調していた。私はエトがなぜこんなことをしたのか全くもって理解が出来なかった。あんなに満たされている安寧の日々を送ってきたのにも関わらず、それを自ら放棄しようとする彼女の行為は凶行のように見えた。走ったためか動悸が荒く、喘ぐように酸素を求め拙い言葉で理由を尋ねた。
「そうね、幸せだったわよ。私にとっても、毎日が彩られてカラフルで、ここにいると汚いって言われてるような気がしないしね。楽しかったわ、本当に。でもね、結局、私は独りだったわ。」
悲しそうな目で私を見つめる彼女の瞳は、私の心を固く縛り付けた。ただ、私はこの数年間ずっとエトと一緒に居たのだ。だからこそエトが孤独であったということに疑問を抱いた。再び尋ねる、私たちの日々が楽しかったなら、独りなんかじゃなかったはずだと。
「独りじゃなかったとしても、あたしはあなたと居てもあたしの傷が消えることは無かったわ。だって、あなたからあたしに触れようとしたことなんて、一回もなかったじゃない。最初にあたしが震えていた夜、どうしてあなたはあたしの手を握ってくれなかったの?どうしてそっとしておこうなんて思ったの?」
それは、私がエトの傷に触れてしまったらさらに深くなってしまいそうで、彼女が更に深く傷つくのを危惧したからだ。そんな旨のことを言おうとしても、急に喉が無くなったみたいに声が出なかった。
「ほら、あなたはあたしに何も言ってくれないのよ。あなたはあたしに優しくしようとしてくれてる、それは分かるの。でもあなたのそれは優しさじゃないのよ。ただ臆病なだけ、他人の心に触れて自分が嫌われてしまうのを恐れているだけなの。あたしはあなたを心の底から愛しているわ、でも、あなたはそうじゃないでしょう?あなたに愛されないならあたし、もう他の誰に愛されるっていうのよ。」
違う、違う違う、違う。私はエトを愛している、本気で心配していただけなのだ、私なんかが触れてしまうことで彼女の白さを汚してしまいたくなかっただけだ。彼女の思いは勘違いなのだと、私はあなたを愛していると、そう伝える為の声が波に攫われてしまったかのように消失する。どうして、どうして私は言葉を発せないのか、突然失語症にでもなったなんて、そんなわけあるはずない。
「あなた、本当に窮屈そうね。可哀想。いつも誰かの目線に怯えてて、きっと他者のために何かをしていないと不安なのね。なんて臆病な愛を持っているのかしら。そんなあなたを最後まで愛してるわ。」
「そうだ!覚えてる?あなたと最初に会って、あなたの名前を聞いたじゃない?その時にあなたにピッタリの名前って言ったでしょう!最初は、名前通り綺麗な子だなって思っただけなのよ。でもね!あなたの名前には臆病な愛って意味があるのよね。やっぱり、あなたにピッタリよ。」
やめてほしい、そんな急に昔の話を楽しそうにしないで欲しい。それはまるで、死期を悟った子供が親を悲しませないようにと精一杯気を貼って元気の仮面を身にまとっているかのようだった。私の膝が笑っていた、恐怖なのか、それとも疲労から来るものなのかは分からないが、これから大切なものを失う私を嘲笑っていた。
「さようなら、楽しくて、幸せで、何よりも大切な時間をあたしにくれてありがとう。アンズ、愛してるわ。」
そう言って彼女は崖の上から真っ暗な海へ姿を消した。今まで沢山呼ばれてきたはずの私の名前を、なぜだかその時初めて呼ばれたような気がした。頭の中で何度も彼女が私を呼ぶ声を反芻して、彼女が落ちていった黒い海を眺める。どれぐらいだろう、しばらく海を見つめていると、私の隣に一冊の本が置いてあることに気づく。それは聖書だった。私があの教会から逃げ出した時に持ち出し、いつの間にかなくなっていたと思っていた。私が最もこの世で呪った本が、今になって何故ここにあるのか私にはわからなかった。
「君は、完璧になり損ねた。」
どこからか、声が聞こえる。おそらくこの聖書の声なのだろう、失意の中にいる私にはどこから声がして誰が喋っているかなどどうでもよかった。
「君は、両親の完璧になり損ねた。」
そうだ、私は両親の期待を裏切り、あまつさえ逃げ出してきたのだ。あんなに愛していた両親の求める物に、私はなれなかった。
「君は、彼女の完璧になり損ねた。」
私はエトが孤独であったことに気づけず、自分本意なエゴで彼女を苦しめた。そこに疑う余地はなく、もしも私が彼女を本当に愛していたのであれば、彼女は恐らく死を選択しなかっただろう。私は彼女の求めた温もりを、差し出せなかった。
「君が愛していたものは、紛れもなく全て君だ。両親は君を愛してなんかいなかった。しかし君は考えようともせず、被虐者の愛で自分自身を包み込んで逃げただけだ。だから、彼女は死んだ。君のそれは醜い自己愛だ、それが君のせいで出来上がったものじゃないにしろ君のそれで彼女は死んだ。」
私は、きっと最初から壊れてしまっていたのだろう。それに目を向けようともしないで、逃げ続け、自分で自分を包んでしまっていた。壊れている私は、大切なものなんてもう何も無い私は、楽しくもないのにヘラヘラと薄ら笑いを浮かべて軽やかに立ち上がった。耳障りな言葉を吐き散らかす聖書は海へ投げ捨て、一歩前に踏み出した。風が心地よく、あたりはまだ暗い。もう一歩、足を前へと運ぶ。体勢が崩れ、私は宙を舞った。ただ落ちていく感覚の中で、私は私の事だけを考えながらゆっくりと瞼を閉じた。
壊れたあなたのマクガフィン 枯木冬人 @SOTASN
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