第22話 それでもいいと言うのなら

 コーヒーカップを手にしていたのは、店主だけだった。


 チェスはもとよりトールもアカシも手をつけず、部屋には重い沈黙が降りた。


「成程。カードはヴァネッサが持っていたんだね。ジャンク街の住人が素早く取っていったんだろう。それが捨てられて、もう少しまともな者に拾われて、うちに連絡がきた」


 店主はまず、話のメインから外れたところについて推測を述べた。


「それで?」


 彼は首をかしげた。


「ヴァネッサを直してほしいと言うのかい?」


「マスター。そんなこと、訊かなくても」


 判りきっているじゃないですかとトールは咎める口調で言った。


「はっきり言おう。無理だよ」


「マスター!」


「怒らないでくれ、トール。見れば君も判るだろう。形を整えることは、アカシの言ったように可能だ。ソフトを思い出せるだけ同じように入れ、設定を同じにすることもね。でもそれは〈クレイフィザ〉の〈ヴァネッサ〉になる。新しく作るのと変わらない」


「そうかも、しれないですけど……でも」


「チェスがそれでもいいと言うのなら、引き受けてもいい。だが、それは彼の望みじゃないだろうね」


 若者の希望を代弁して、店主は続けた。


「ダイレクト社なら、初期状態にすることはできるだろう。もしかしたら前メンテのときのバックアップくらい取っているかもしれない。そうすると、かなり近いものに戻る」


「じゃあ、事情を話してダイレクト社に」


「無理だよ」


 店主はまた言った。


「〈ヴァネッサ〉は『廃棄処分』になっている。ダイレクト社は修理に応じないだろう」


「やってみなくちゃ判らないじゃないですか!」


「やってみなくても判ることはあるよ。ダイレクト社は決して、例外を作らないんだ」


 きっぱりと彼は言った。


「無理……なのか。そう、だよな」


 かすれる声でチェスは呟いた。


「俺……俺がヴァネッサをこんなふうにしちまった」


「それは違うよ、チェス」


 トールは首を振った。


「君が助け出さなかったら、彼女はジョバンニに」


「――ジョバンニにばらばらにされなかった代わりに、俺がしちまったんだ!」


 若者は悲鳴を上げた。


「俺、考えたんだ。どうしてジョバンニは俺を突き落とさなかったのかって。それに、あいつがヴァネッサを突き落としたはずがない。あいつは、自分の手で、ばらばらにしたかったんだから」


 ジョバンニは、空いていた左手で、下をのぞき込んでいたチェスの肩を押そうとした。その意図に気づいたヴァネッサが、思い切りジョバンニを押し返した。その結果、チェスへの力は弱くなり、反動で、彼女は落ちた。


 それが、チェスの想像した「起きたこと」だった。


「俺の、せいだ。俺が屋上なんかに逃げなかったら」


「そうしたら君はやがて追いつめられ、飛び降りるという選択肢を与えられずに撃たれたか殴り殺されて、ヴァネッサは連れられ、やはりばらばらにされただろうね」


 淡々と店主は言った。


「君のせいじゃない」


「そんなの、気休めだ! 逃げられたかも、しれないのに!」


「そう言われれば、そうだと言うしかない。だが誰かのせいだと言うのならば、全ては、異常性癖の持ち主のせいじゃないかな」


 ジョバンニがそんな男でなければ、チェスはヴァネッサを連れて逃げるとまで考えなかったはずだ。たとえ恋が続いても、彼女のマスターがマリオットからジョバンニになったとしても、次のマリオット邸での仕事を心待ちにするくらいで。


 店主はそうしたことを話した。


「君のせいじゃないよ、チェス」


「先生……」


 ぶわりと、若者の目に涙が浮かんだ。


「ヴァネッサ……死んじまったんだ……」


 トールはそっとチェスの横によって、彼の肩に手を置いた。ずっとこらえていたのだろう、若者は声を上げて泣き出した。


「マスター」


 アカシが近寄り、そっとささやいた。


「本当に、何かないんですか。怪しい裏ルートとか」


「私を何だと思ってるんだい」


「法律より趣味が大事な人でしょ」


「その通りだがね」


 マスターは肩をすくめた。


「実はひとつ、メールを打ってある。返事はそんなに早くはこないだろうから、言うまいと思っていたんだが」


「何です。何をやったんです。吐いてください」


「悪事を働いたみたいな言い方はよしてくれ。……いや、悪事かもしれないね」


「何を――」


 そのとき、通信が入ったことを知らせる音が鳴った。トールは顔を上げ、アカシは制するように片手を上げると、通信パネルに近づいて手を触れた。


「はい、〈クレイフィザ〉です。……はい、ええ、はい。……少々お待ちを」


 青年は通信を保留にすると、店主を見た。


「マスター。ダイレクト社のアジアートと名乗る人物からです」


「え?」


 覚えのある名前に、チェスも顔を上げた。


「早いねえ。さすがと言うべきなんだろうか」


 感心したように言って、彼は高機能軽量端末を付属した眼鏡に触れると、通信を受け取った。


「――〈クレイフィザ〉代表リンツです。ミスタ・アジアートですね。ええ、メールに書きました通り……」


 しばらく彼らは、やり取りの片端だけをやきもきしながら聞いていた。


「判りました。では明日。詳細はメールでお知らせします。別の連絡先をお伺いしたいのですが。ええ、助かります。お待ちしています」


 彼が通信を切ると、全員が息を吸い込んだ。


「マスター」


「いまの」


「何ですかっ」


「一斉に叫ばないでくれないか」


 降参するように店主は両手を上げた。

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