第18話 君がしっかりやるんだよ

「チェス。どうしますか」


 ヴァネッサは若者に尋ねた。


「え、え、な、何?」


 若者は混乱していた。


「何が、どうなって……」


「ドクターはあなたに二万クーラン出すと仰っています。支払い分を相殺して、九千四百ということになりますが」


「きゅ、九千、だって」


 チェスは目を白黒させた。


「ま、待ってくれよ。判らないんだけど」


「……つまりですね、チェス」


 仕方なさそうに、トールは息を吐いた。


「ヴァネッサは、秘匿された情報を売り払ったんです。あなたを『マスター』同然にするために」


「……え」


「九千もあれば、他都市への逃亡資金に充分だと思うよ。入金の手続きのために、一日だけ頑張って隠れてもらう必要はあるが」


 まだディスプレイを見たままで、店主は言った。


「ヴァネッサ。パスコードを復唱」


「0782-NABU-08DS」


「オーケイ。ちょっと待って。プライオリティを修正する」


 それからしばらく、誰もが無言だった。彼らはただ、フィンガーグローブをはめたクリエイターの指が、鈍い光のヴァーチャルキーボードの上を動くのを眺めていた。


「――うん。これでいい。『マスター』のプライオリティは1、これは絶対だが、チェスのそれを1.1としたよ。通常、1の次は2まで飛び、そこから細かく分かれるんだけれど」


 彼は眼鏡を外して少し目の辺りを押さえた


「本来は有り得ない設定だ。だが、エラーは発生しないようにした。絶対にバグが出ないとは言い切れないものの、致命的なことにはならないだろう。これで、チェス」


 眼鏡をかけて、店主は若者を見た。


「本物のマスターが現れない限り、君がマスター同然だ」


「俺が……」


 ヴァネッサの。


 チェスは、とても奇妙な気分になった。


「さて、これでもう、お互いに用はないね」


 彼は手探りでカードを手にし、ヴァネッサに差し出した。リンツェロイドは受け取り、チェスに差し出した。呆然と、チェスがそれを受け取る。


「トール。彼女のコードを外して。それから、おまけだ。ステッパーを三つほど分けてあげて」


「はい、マスター」


 不承不承という雰囲気で、助手は指示に従った。


「ダイレクト社の〈ライティス〉じゃありませんが、非常に一般的な配合にしてありますから、ヴァネッサさんに問題は生じないと思います。どうぞ」


 彼は鞄から取り出した三つのパックを彼女に手渡した。


「有難う、トール。助かります」


 リンツェロイドは丁寧に礼を言った。


「さあ、隠れ家についてはミスタ・ルロイにいろいろ訊くといい。高飛びのためのチケット手配についてもね。さすがにそうしたノウハウはダイレクト社製品でも持っていないだろうから、君がしっかりやるんだよ、チェス」


「あ……ああ」


 若者は戸惑いながらうなずいた。


「――ああ」


 それからもう一度、改めて、力強く。


「ヴァネッサ。立てる?」


「はい、チェス。充電をしましたから、大丈夫です。もう少ししたら、ステッパーをいただきます。そうすれば最低でもおよそ二日は、配電所に寄らずとも稼働に問題は発生しません」


「じゃあ……」


 チェスはそっと、手を差し出した。


「行こうか」


「はい、チェス」


 彼女はその手を取った。美しく、微笑んで。


(どこに――行けばいいんだろう)


(判らない)


(でも俺は、絶対に)


(ヴァネッサを守るんだ)


 若者は固い決意とともに、薄暗い仮眠室から店内へと、戻っていった。

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