第16話 礼を言われるようなことじゃない

 ――かすかな、駆動音がした。


「よし、これでいい。起動するよ」


 〈クレイフィザ〉店主の声に、若者は立ち上がった。


「ヴァネッサ……ヴァネッサ!」


「まあ、もう少し待って。完全に落ちていたから、ほんの少し時間がかかる」


 それは不思議な、光景だった。


 少女の瞳が開き、ふたつのエメラルドに、光が宿る。


 乾いた大地に水がしみ込んでいくかのごとく、リンツェロイドは――息吹を得た。


「……チェス」


 美しい声が彼を呼んだ。チェスはほうっと力を抜いた。


「ああ、ヴァネッサ! 有難う、先生!」


「作業自体は、言ったように難しいものじゃないんだ。礼を言われるようなことじゃないよ。料金は請求するんだしね」


 にっこりと男は笑んだ。口止め料などと言ってきたことを思えば善人とは言えなさそうだが、同じ眼鏡でもジョバンニよりは印象がいいな、とチェスは思った。


 もっとも、トールに言わせれば、それは時として性質たちの悪い笑顔ということになったが、チェスは〈クレイフィザ〉店主のことをよく知らない。


「さて、ヴァネッサ。私は通りすがりの『医者』だが」


 彼はそんなふうに言ってリンツェロイドを見た。


「どうして完全に落ちたのか、自分で理由が判るかい」


「判りません」


 リンツェロイドは答えた。


「ジョバンニ様が、調整をするからと仰っていくつかの重要機能を落とすよう、指示くださったことは覚えています」


「成程。チェスの推測通り、ジョバンニとやらの仕業という訳か。彼がそうした理由に見当はつく?」


「マスターが新しく〈ローズマリー〉を得ることになりましたので、初期化されてダイレクト社に戻されるか、ジョバンニ様が新しいマスターになるか、どちらかの可能性があったと思います」


「〈ローズマリー〉とは!」


 店主はそこに反応した。


「ダイレクト社の最新シリーズじゃないか。マフィアのボスというのは、ずいぶん儲かるんだねえ」


「マスター」


 こほん、とトールは咳払いをした。店主は肩をすくめた。


「では、それ以外は?」


「と仰いますと?」


「このチェスは、君がジョバンニにばらばらにされるんじゃないかと心配したんだ」


「――ばらばら」


 その意味を考えるように、ヴァネッサは少し沈黙した。


「怖がらせるなよっ」


 チェスはぱっとヴァネッサの隣に行くと、男に抗議をした。


「大丈夫です、チェス。怖がってはいません」


 少女の形をしたものは首を振った。


「それも有り得ることです、ドクター」


 「医者」と言ったためだろう、彼女は店主をそう呼んだ。


「根拠は?」


「彼はよく、私にそうしたことを言っていましたから」


「あ、あの野郎」


 チェスは両の拳を握った。


「やっぱりか。ヴァネッサに、何てことを言いやがるんだ」


「本気で言っているのかは判りませんでした。ですが、もしも彼がマスターになれば、私は従うだけですから」


 淡々と、リンツェロイドは言った。


「それじゃ、やっぱり……知ってたのか?」


 躊躇いがちに、チェスは尋ねた。


「何をでしょうか、チェス」


「その、俺に『さようなら』って言ったとき。あいつに、ばらされるかもって」


「――はい、そのように思いました」


 彼女は認めた。


「あれがもう、最後ではないかと」


「ヴァネッサ……」


 チェスはこみ上げる何かをこらえた。


「ですが、判りません」


 そこでリンツェロイドは首をかしげた。


「ここは、どこですか? どうして私はここに?」


「それはチェスに尋ねないとね」


 店主は促した。若者は訥々と語った。


 彼女との出会いから、ジョバンニのこと。マフィアの話や、ボスが新作を手に入れればヴァネッサがジョバンニの手に渡ると知ったこと。


 頭のなかが真っ白になって、無我夢中でヴァネッサを連れ出したこと。


 あれからジョバンニはすぐに気づいて、彼らに追っ手を差し向けた。


 チェスは必死で逃げ、警察も入りたがらないというジャンク街までやってきた。しかしそれは却ってマフィアの手下たちを活気づかせ、見つかったら間違いなく殺されるだろうと感じた。


 だがそれでも――。


「それでも、俺、ヴァネッサを助けたかった」

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