第14話 それはとても幸せな
「面白いガキだ」
ボスは繰り返した。
「一時間、やろう」
「……え?」
「一時間だけだ。ヴァネッサとお喋りでもして楽しむといい。だがそれで、ロイドへの恋心なんぞ断ち切ることだ。お前のために言ってやってるんだぞ、坊ず」
それは親切な物言いのようにも見えたが、脅迫でもあった。
ジョバンニの台詞と同じだ。
いまは許す。但し、次はない。
ちんぴらは釈然としない顔をしていたが、ボスの命令に従って、彼をヴァネッサの部屋へと案内した。
プライベートなど持たないリンツェロイドに自室があるなどおかしな話であったが、彼女のマスターはそれがいいと思ったようだった。
常に傍らに置いておく必要もない。本来は家事をさせる使役機械だが、ダイレクト社のリンツェロイドとなれば、富裕の象徴でもある。ただでさえ金のかかる機械に更に金をかける。それがマリオットの自尊心を満たしていたのかもしれない。
「――ヴァネッサ」
「何でしょう、チェス」
呼びかければ、彼女は微笑んで彼に返事をした。
「えっと……何だか、変なことになったけど」
「マスターは、チェスとお話をしなさいと仰いました。どんなお話をしましょうか?」
「どんなって、その……」
「昨日も、いらしたとうかがいました」
「え」
チェスは口を開けた。
「それは……ジョバンニから?」
「はい。私に会いにきてくださったとか。ジョバンニ様は帰っていただいたと仰っていましたが、お会いできなくて残念に思いました」
「え……」
どきりとした。
こんなのは、世辞だ。そういうプログラムなのだ。
若者はそう思ったけれど、それでも、どきりとした。
「誰にでも、言うんだろう?」
その動悸を打ち消そうとするかのように、彼は尋ねた。
「はい?」
「残念だとか。そんなふうに。……誰にでも」
「いいえ、チェス」
ヴァネッサは首を振った。
「『誰にでも』は、言いません」
その答えは、やはり、彼が喜ぶような意味ではなかったかもしれない。たとえば、「マスター」が気に入っている庭師の弟子であるからそのように言うということかもしれない。何の関係もない、たとえばデリバリーの人間などには言わないと、そういうことかも。
その程度の人物分類、区別はするのだと、彼女の言うのはそういうことであったかもしれない。
だがチェスは、とても嬉しかった。
彼の恋心は、治まるどころではなかった。
それはとても幸せな、一時間だった。
永遠にこのときが続けばいいのにと、チェスは決して実現しない夢を願った。
「時間だ」
そう、夢は実現しなかった。
時間は、やってきた。眼鏡をかけた冷たい男を伴って。
「ヴァネッサ。こちらへ」
「はい、ジョバンニ様」
彼女はすっと立ち上がり、チェスから離れて、ジョバンニの隣に向かった。
「あ……」
「さようなら、チェス」
振り返ると彼女は、にっこりと微笑んだ。
「とても楽しかったです。有難う」
「お、俺こそ! すごく……」
「ヴァネッサ。私の部屋で待て」
「はい、ジョバンニ様」
挨拶の言葉さえ遮り、ジョバンニはヴァネッサをチェスの目の届かないところへやった。チェスはうなった。
「てめえ」
「何だ、その目は。マリオット様のご厚情に、これ以上甘えようとでも? ふざけるな、ネズミ。早く出て行け」
それとも、とジョバンニは言った。
「逆らうならば、約束通り、いまを『次』にしてやる」
「ない」はずの「次」をマリオットが許した。しかしチェスが逆らえば、ジョバンニは彼を射殺でも何でもする。眼鏡の男はそういうことを言っていた。
「フォックス」
「あ? あっ、ジョ、ジョバンニ様。何でしょう」
通りかかった若い男――ファミリーの一員なのだろう――が呼び止められて、慌てていた。
「このネズミを追い出せ」
「へ? あ、はい」
フォックスと呼ばれた男は、何だろうかと思うように首をかしげながらも、その命令に従った。
「おい、ジョバンニ!」
踵を返した男の背に、チェスは叫んだ。
「ヴァネッサに何かしたら、ただじゃ……おかないからな!」
その台詞は、冗談にもならなかっただろう。チェスに何ができると言うのか。ジョバンニは嘲笑うことすらせず、そのまま去った。
「何だ何だ」
フォックスは口の端を上げて、それを見た。
「〈ヴァネッサ〉だって?……まあ、何でもいい。おい、てめえ。乱暴にされたくなきゃ、おとなしくついてこい」
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