第12話 忘れてしまうべきだった

 だが、このまま帰ることなどできなかった。


 それから若者は、ダイレクト社の車の横でじっと待っていた。不審に思った使用人が彼を誰何したが、自分は運転手だと言い抜けた。表には防犯カメラがあったはずだから、もしチェックされたら、社員がひとりでやってきたことは判っただろう。だが幸い、使用人はそこまでしなかった。


 彼を招き入れたメイドが客に茶でも持っていったら、彼女は社員がひとりであることを奇妙に思っただろう。


 しかしこれまた幸い、そのメイドが社員の人数を確認することはなかった。


 運はそのとき、チェスに味方していた。


 恋する、若者に。


「あ、あなた」


 しばらくして戻ってきたダイレクト社員は、チェスの姿に驚いた顔をした。


「まだ、いたんですか」


「教えてくれ」


 彼は勢い込んだ。


「マリオットは、どんな反応だった。買いそうか?」


「ええ……おかげさまで」


 戸惑いながら社員は答えた。くそ、とチェスは品のない言葉を発した。


「ヴァネッサは! ヴァネッサはどうなると思う!?」


「先ほどからそんなことを言っているようですが……確かに、ミスタ・ジョバンニの仰ったように『古い方に飽きる』ことはあるかもしれませんが、高級なものですからね。捨て置いたり、廃棄したりはしませんよ、普通」


 若者が何を案じているかだいたい推測して、社員は言った。


「パターンのひとつとして、うちが引き取るということもあります。データを初期化し、子会社に払い下げて二代目のマスターを待たせます。中古品ということでダイレクト社ブランドは外しますが、いくらか安価になりますので、それこそ二体目、三体目として買うお客様もいらっしゃいますね」


 「初期化」だの「中古品」だのという言葉がいささか引っかかったが、そこは彼の突っかかるべきところではなかった。


「ほかのパターンは」


「何ですって?」


「知り合いに安く売るとか、そういうこともあるんじゃないのか」


「ええ、ありますね」


 あっさりと社員は答えた。


「ジョバンニが……やたら、新作を推してたりしなかったか」


「はい?」


「だから。ボスに新しいのを買わせて、ヴァネッサを譲り受けようとしてる様子はなかったかってことだ」


「ああ……もしかして」


 社員はくすりと笑った。


「あなた方、〈ヴァネッサ〉を巡ってのライバル同士なんですか」


「笑いごとじゃねえ!」


 チェスは叫んだ。何も知らない可哀想な社員は目をしばたたいた。


「あいつ、ヴァネッサを」


 ヴァネッサを。


 そこで彼は言葉をとめた。


 ばらばらにするかもしれないなんて、何の根拠もない話だ。メイドから噂を聞いただけ。あれはメイドの思い込みかもしれない。ジョバンニにロイド・フェティシストの気質はありそうだが、本当にただ、ヴァネッサを所有したいというだけかも。


「〈ヴァネッサ〉をどうこうする権利は、彼女のマスターたるマリオット氏がお持ちです。売ってもらいたいのであれば、彼にお願いするしかないでしょう。うちが引き取ることになったら連絡がほしいと言うのであれば、応じますが」


 私にできるのはそれくらいですと社員は言った。


 チェスは黙って、差し出された名刺を受け取った。そこには、フレデリク・アジアートとあった。


「帰りますか。近くのステーションまででしたら、お送りしますよ」


 おそらくアジアートは、たとえ連絡をもらっても、チェスでは〈ヴァネッサ〉の購入が難しいと踏んだのだろう。気の毒な顔つきで若者を見て、益にもならない行為を申し出た。


 もごもごと礼を言ってチェスは、車に乗り込んだ。




 今度こそ、忘れてしまうべきだった。


 だが、そんな理性の声は彼に届かなかった。


 人は誰でも、冷静さを失ってしまうものなのだ。


 恋の、前には。

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