第9話 間違っても逆らうな
「ミスタ・チェス」
彼女は再び、彼を呼んだ。そして彼に近寄ると、彼の右手を取った。
「え」
チェスは焦った。
「汚れがお顔についてしまいました。お拭きいたしましょうか?」
「うえっ、い、いいよ、そんなの!」
慌てて彼は左手を振り、右手を引いた。
「――驚いた」
「はい?」
「機械なのに……手もあったかいんだ」
「機械だからこそです。エンジンの熱は冷却しますが、燃料電池も発熱いたしますから」
「そ、そっか……」
よく判らなかったが、そういうものなのだなと彼は思った。
「あちらに支度をしてあります。どうぞご休憩ください」
ヴァネッサはまた言った。有難う、とチェスは返した。彼女は美しい微笑みを浮かべた。
そんなことが、何日か置きにあった。あるときチェスはヴァネッサを引き止めることに成功し、休憩時間にお喋りをした。
庭の片隅で。シートを敷いて。それはまるで、幸せなピクニック。
デートと言うには親方が――正直なところ――邪魔だったが、彼はリンツェロイドと話をするなど馬鹿らしいとでも思うらしく、話に参加はしてこなかった。
何を話した訳でもない。ろくに中身のない、世間話だった。
リンツェロイドは上手に返事をした。話を展開させることもあった。チェスには、ヴァネッサがロイドだなどとはとても思えなかった。だが同時に、ヴァネッサや親方が彼に嘘をつく必要などないと判っていた。
それに、この、完璧なる美しさ。
作られたもの、だからこそ。
「〈ヴァネッサ〉。そこで何をしている」
冷たい声が彼女を呼んだ。リンツェロイドは立ち上がって振り返った。
「ジョバンニ様」
言って、彼女は深々と礼をした。親方も慌てたように立ち上がり、それを見てチェスも倣った。
「本日は、テオがお休みをいただいておりますので、わたくしが代わりに彼らのティータイムを整えました」
「何だと? 誰に言われた」
鋭く尋ねたのは、二十代半ばから後半と見える男だった。その声音と、銀色の髪と青い目が、冷酷な雰囲気を思わせた。
「テオに頼まれました」
「あのメイドめ。〈ヴァネッサ〉にさせることではない」
細い眼鏡の奥の瞳を光らせて、ジョバンニと呼ばれた男は舌打ちした。
「マリオット様にお話しする。あれはクビだ」
〈ヴァネッサ〉は何も言わなかった。
「こっちにこい。お前のような高級リンツェロイドが地べたに座るなど、みっともない」
「申し訳ありません」
彼女は丁寧に謝った。チェスは何だかむっとした。
「何だよ。地面に座っちゃいけないのかよ。シート敷いてんだし、別に汚くないだろ」
若者の反発に、ジョバンニは彼を一瞥した。だが青年は「反応を返す価値もない」とばかりに何も言わず、表情ひとつ変えず、〈ヴァネッサ〉に手を差し伸べただけだった。
「――おい」
「よせ、チェス。申し訳ない、ジョバンニ様。こいつ、新参なもんで」
へこへこと親方が頭を下げた。
「ほら、お前も謝れ」
「何で俺が」
やはりチェスは反発したが、やはりジョバンニは気にもとめなかった。男はそのまま、美しきロイドの手を取って庭をあとにした。
「こらチェス。あの方をどなただと思っているんだ」
親方の叱責がやってきた。
「知らないよ。誰だよ」
「マリオット・ファミリーのシステム構築から運用まで一手に任されている人物で、情報将軍と言われてる。二十五番街区をあっという間にレーガー・ファミリーから奪ったのは、ジョバンニ様の情報力がものを言ったとか」
「何だよそれ」
意味が判らないとチェスは正直に言った。
「つまりな。ものすごく頭が良くて、力を持ってる人だということだ。間違っても逆らうなよ。〈ヴァネッサ〉と遊びたくてももう我慢するんだ」
「遊ぶだなんて、子供じゃあるまいし」
チェスは手を振った。
「……別に。きれいな子と話すのは楽しかったけど。危ない人を怒らせてまで機械とお喋りなんか」
ぼそぼそとチェスは言った。それならいいが、と親方は呟いた。
その翌日であった。休憩をと彼らを呼んだのはいつもと違うメイドで、〈ヴァネッサ〉ではなかった。
「あれ」
チェスはまばたきをした。
「いつもの人は?」
「お暇をいただきました」
メイドは答えた。
「それってさ」
つい、チェスは尋ねた。
「眼鏡男がクビにした、ってこと?」
メイドが目を見開いたのは「眼鏡男」との呼称のせいか、はたまたチェスがそれを知っていることに驚いたせいか。
「……はい、その通りです」
声をひそめてメイドは答えた。
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