第8話 〈ヴァネッサ〉

 チェスが初めて〈ヴァネッサ〉を見たのは、二ヶ月前のことだった。


 仕事で訪れたその家に、ダイレクト社の超高級リンツェロイドがある、という話は聞いていた。彼は本物のリンツェロイドを見たことがなかったが、どういうものかということだけは知っていた。


 しかし、判らなかった。


 〈ヴァネッサ〉は人間としか見えなかった。


 とても美しい少女だとしか。


 彼はてっきりその家の娘だと思って、軽く頭を下げた。その彼に、彼女は微笑みかけたのだ。


 心臓が、とまるかと思った。


 きらきらと輝く、細い金の髪。雪のように白い肌。エメラルドのような、緑の瞳。


 彼女はとても、美しかった。


 チェスは口をぱかっと開け、馬鹿みたいな顔つきでヴァネッサの微笑みを見つめていた。


「何してる、チェス、こっちだ」


「あ、あ……うん」


 慌てて彼は、雇い主に従った。


「見た? 親方(ボス)。あの子、すっごい、美人」


「何だって? ああ、〈ヴァネッサ〉か。確かに美人だがあれは」


 リンツェロイドだと、そう聞いた。


 初めはからかわれているのだと思った。リンツェロイドが人間にそっくりだと言っても、ニューエイジロイドよりは人間っぽいという程度と考えていたからだ。


「俺も最初は驚いたさ。映像なんかじゃ見たことあったが、本物を近くで見たのは〈ヴァネッサ〉が初めてだったからな。何でも、ダイレクト社製品らしい。きっと、普通のリンツェロイドよりもずっとすごいんだろう」


 彼のボスもあまり詳しいことは知らず、中途半端な知識で適当なことを語った。


 チェスは振り返ると、もう一度〈ヴァネッサ〉を見た。


 リンツェロイドは、訪問者たちを見送るようにその場に佇んだままでいた。


(ああ、そうだな)


 チェスは思った。


(あんなにきれいなのは、作り物だからなんだ)


 その考えは、とても納得のいくものだった。


 それから数日。


 チェスの仕事は、その家の庭を手入れすることだった。


 さまざまなことが機械化された昨今でも、人間の「センス」はなかなかプログラムにならない。デザイナーが手がけるヴァーチャル庭園も存在するものの、金持ちは「本物」を欲しがった。


 ただの剪定ならば専用のニューエイジロイドでも可能だが、「美しく」「趣のあるように」というのは難しい。「昨年の春と完全に同じ状態に」というのであればともかく、「印象が違うようにしてくれ」などという依頼には人間の出番だ。


 もっとも、チェスのやることは「ニューエイジロイドでもできること」だ。親方の指示に従って花を植えたり、形を整えたり、肥料をまいたりするだけ。まだ見習いの彼にできるのは、それくらいだった。


 チェスはちらちらと、家を眺めた。


 その家にはたくさんの人間が出入りしていた。


 スーツを着た立派そうな人物もいれば、柄の悪いのもいた。何人かが銃を手にして談笑しているのも見かけた。


 ここがどういう家なのかチェスはあらかじめ聞かされていたから、そんなには驚かなかった。


 二十五番街区の覇権争いに打ち勝った、マリオット・ファミリーのボスの邸宅だ。


 親方は以前からマリオットの仕事を請け負っているとかで、マリオットも普段は優しい人だと聞いていた。おかげで特に怖がることもなく、チェスは仕事に励んでいた。


 と言うより――。


 ほかに気になることがあった。


 〈ヴァネッサ〉。


 あの美しきリンツェロイドをまた見ることができないだろうか。


 彼はそんなことを考えて、ちらちらと家をのぞき見ていたのだ。


 その機会は、やがてやってきた。


「――ご苦労様です」


 チェスの心臓はどかんと音を立て、彼は慌てて立ち上がった。


 それは、かの〈ヴァネッサ〉はこんな声を出すのではないかと、彼が想像した通りの声音だったからだ。


「ミスタ・ガーデナー。紅茶の支度が整いました。ご休憩をどうぞ」


「う……あ、え、えっと」


 若者はしどろもどろになりながら、土で汚れた両手を前掛けで拭いた。


 休憩時間はいつも提供されるが、これまでは年嵩の、「おばちゃん」という雰囲気のメイドが彼に声をかけてきたのだ。


 まさか、〈ヴァネッサ〉がくるなんて、思いもしなかった。


「しゃ、喋るんだ」


 思わず、彼は言っていた。ヴァネッサはやわらかく微笑んだ。


「わたくしですか? はい、トークレベルは5に設定されています。申し遅れました。私は〈ヴァネッサ〉と申します」


「あ、俺、チェ、チェス」


 彼は名乗った。誰かが聞いていれば、笑っただろう。リンツェロイドに名乗り返すなんて、と。


「ミスタ・チェス」


 リンツェロイドは微笑んだ。


「ご丁寧に、有難うございます。データベースに登録いたしました」


「本当に……」


 チェスは、汚れを拭き切れていない右手を額に当てた。


「ロイド、なんだ」


「はい」


 答えて〈ヴァネッサ〉は数字や記号の並んだ手首を示した。それから爪のない指先を。


 人と違うのは、そこだけ。


 いや――。


 あまりにも美しい、その姿。

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