第27話 逢い引き

 昼下がりの気怠い時間だった。だらだらと居残っていた泊まり客もさすがにもう全員片付いて、気の早い夜の客が訪れるにはまだ暫く余裕がある。

 だが客の姿がなくても下働きにはやることがたくさんある。莢は箒を握って赤猫亭の玄関の周りを掃いていた。子供にもできる簡単なお仕事だ。けれどおざなりになんてしない。塵一つ残さず清めるべく、ひたむきに取り組む。


 そのつもりが、ふと気付けば莢の手は止まっていた。心を占めているのはエッチのこと、もといエッチの元に持ち込まれた依頼の件だ。

 もっとも問題は既に全て解決済みである。エッチはしっかりと目的を果たした。ミルを無事に保護してレントの街へ連れ帰り、クリシュトフの話の中では脅迫と拉致監禁の犯人扱いされていたミルの友達も、怪我こそしているが命に別条はないとのことだ。

 だからもう心配することはない。ないはずだ。ないと考えるべきなのに、嫌な感じが消えてくれない。


 ミル達を殺そうとした傭兵のガリウスはエッチに討たれ、陰謀を企んだクリシュトフは実兄のミルによってドラギッチ家から追放された。

 彼らが身を滅ぼす結果を導いたのは莢だ。


 もちろん後悔すべき理由はない。もし莢がエッチに自分の直感を伝えなければ、エッチとミル達の方こそ殺されていたかもしれない。

 それでも罪悪感はつきまとう。だからきっと気分が晴れないんだろう。

 ひとまず自分を納得させて、掃除を再開しようとした時だった。


「あ、おかえりミア」

 外出から戻ったミアを迎える。何の用事でどこに行っていたのかは聞いていない。そもそもさほど気にしてもいなかったのだが、ミアと向かい合った莢は瞬間息を止めた。


 ――ミア、泣いてる?

 思わず二度見してしまうが涙はない。目も赤くなってはいない。ただ表情からはすっかり明るさが失せていた。血の気も引いて、まるで石膏の仮面のようだ。


「どうしたの? 気分でも悪い?」

「サヤ……?」

 ミアはぼんやりと莢に瞳を向けた。明らかに様子がおかしいが、とにかく反応があったことにほっとする。


「何かあったの? もし良かったら話してみて。わたしにできることなら助けになるから」

 ミアは下を向いた。小さく一度だけ肩が震える。


「……サヤ。あたしと来て」

「え、今から? どこへ?」

「どこでも。嫌ならいいの」


 莢は仕事の途中だ。放り出して遊びに行くわけにもいかない。

 まるで落とした物が見つからないみたいに、ミアはじっとうつむいている。莢は長くは迷わなかった。


「いいよ、分った。リンさんに断ってくるから、ちょっとだけ待ってて」

「必要ない」

 奥に向かおうとした莢の手を、乱暴にミアが掴む。


「わっ、ミア?」

 莢が抗う間もなく、強く力を込めるとミアはそのまま歩き出した。どうやら行き先を教えてくれる気はないらしい。


 しょうがない。リンさんにはあとで謝ろう。

 ミアの手を握り返して後に続く。外に出るところで、ちょうど帰ってきたアマンダと鉢合わせしそうになった。たぶん赤猫亭で一番胸が大きくて、とりわけ傭兵達の間で人気が高い人だ。

 ミアはぶつかりかけたアマンダのことを無視した。アマンダが愛嬌のあるタレ目を丸くする。


「どしたのあんたら。駆け落ちでもする気かい?」

「アンさん、ちょっと出掛けるって、リンさんに伝えといてください!」

 逃げるように先を急ぐミアに引っ張られながら、莢はどうにかアマンダの方を振り返った。

「はいよ。いってらー」

 アマンダはひらひらと雑な感じに手を振った。




 ミヒャエル・ドラギッチは胸がしぼんでしまうほどに長く息を吐き出した。いつもより重く感じる体を、椅子の背に凭れさせる。ひどく疲れていた。そしてそれ以上に深い後悔の念を覚えていた。


 机の上には既に目を通した書類と、未だ手付かずの書類とがうずたかく積まれている。全てクリシュトフの執務室から運ばせたものだ。

 数字を一つ一つ詳細に点検したわけではない。するまでもなく、弟が多くの隠し事をしていたのは瞭然だった。


 せめてもの救いは、弟に任せていた仕事が、事業全体からすればわずかな範囲にとどまっていたことである。商会の経営が危うくなるほどの損失はおそらく発生していない。だがもちろん喜ぶ気にはなれない。


「参ったな。当分ラルのところへは行けそうもないや」

 つい愚痴がこぼれてしまう。

 ランデルは大事な取引相手で、怪我をしたのはミヒャエルの事情に巻き込まれたせいである。結果的に軽傷で済んだとはいえ、一人では何かと不自由もあるだろう。責任を取って暫くの間一緒に暮らすか、それが無理でも足繁く通って身の回りの世話などしたかったのだが。


 必要ないとランデルには無下に断られてしまった。それにミヒャエルだって頭ではちゃんと理解している。ドラギッチ家当主として、今は後処理を優先しないわけにはいかない。


「ああ……クリフ、これじゃあだめだよ。危ない橋を渡ったからといって、その先に大きな利益が待ってるとは限らないんだから」

 弟が記した事業計画らしきものの内容を拾い読みして半ば呆れる。クリシュトフの手法は、端的に評すれば、ずさんで強引だった。しかもその結果として生じた損失を正確に報告していないばかりか、違法すれすれ、不法ぎりぎりといった斡旋や工作も行っていたらしい。

 あるいは証拠となる文書をここに置いてないだけで、完全な犯罪行為にまで手を出していた可能性もある。昨日の襲撃未遂が最初とは限らないのだ。


「おや、これは?」

 ミヒャエルは紙束をめくる手を止めた。王国やレントの代官府が厳しく取り締まっているわけではないが、あまり公にはしたくない取引の記録である。ドラギッチ商会では取り扱っておらず、ミヒャエルとしては今後も取り扱うつもりはないものの、世の中ではよくある商売に関するものだ。


 重要性は必ずしも高くない。だがいささか気になる内容だった。今回の事件を踏まえれば、なおざりにはしておけない。ミヒャエルは卓上のベルを鳴らした。さして待つこともなく、使用人が現れる。


「ミヒャエル様、お呼びでしょうか」

「実直傭兵団の支部へ行って、エッチベルゼリッチ・シュタイナー氏をお連れしてくれ。丁重にな」

「かしこまりました」

 指示を受けて使用人が出ていくと、ミヒャエルは再び書類の山へと埋没した。

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