第26話 無能の烙印
(すごいじゃないか、クリフ)
ミヒャエルの驚きと賞讃の顔を想像して、クリシュトフは得意げな笑みを浮かべた。その頬が一転して強張る。
「なのになぜっ!」
杯を砕けんばかりに握り締める。最上級の希少な葡萄酒が、急にひどく酸っぱく感じられていた。
「兄上、悪いのは貴方だ。俺の言葉を信じようとしないばかりか、卑しい異民の樵などにうつつを抜かすなんて……どうなろうと自業自得というものだ」
おそらく今頃はもうガリウスの手に掛かって果てているはずだ。クリシュトフは眉間を歪ませ目を閉じた。せめて亡骸は丁重に葬らせよう。顔に傷など付いていなければいいと願うが、あの卑しい傭兵に細やかな配慮など期待するだけ無駄かもしれない。
それに今後の動きにも不安が残る。道具として自分に忠実に付き従うのならば良し、だがもしそうでない場合には、相応の手段を取る必要があるだろう。
暗く淀む物思いに沈んでいたクリシュトフは、唐突に開けられた扉の音にびくりと身を竦ませた。
「誰だ! 絶対に入ってくるなと言ったはず……」
激昂の素振りで怒鳴りつけようとしたのが急速に尻すぼみになっていく。クリシュトフは呆然として戸口を見た。憔悴もあらわにやつれ、それでもなお端整なその顔を、自分が見紛うわけもない。
「……あ、兄上? そんな、どうして。馬鹿な」
心が乱れ、状況に理解が追いつかない。しかし幽霊だなどとは思わなかった。そんな非現実的な存在をクリシュトフは信じない。
黙祷するかのようにひっそりと佇む兄の後ろから、さらに新たな人影が現れる。
「なっ!?」
クリシュトフは愕然と声を上げた。もともと手狭な当主の間が、まるで牢獄にでもなったかのごとき圧迫感に掴まれる。
エッチベルゼリッチ・シュタイナーは特に負傷した様子もなく、鳶色の瞳で冷徹にクリシュトフを捉える。すぐにもこの場から脱れ出たい衝動に駆られ、だがクリシュトフかろうじて自制した。
エッチは剣を抜いてはいない。あからさまな殺意や敵意も窺えない。ならばまだ望みはある。クリシュトフは急ぎ策を案じた。今がどういう状況だろうと、要はこの男さえ言いくるめてしまえばいい。傭兵の欲しがるものなど決まっている。
内心の焦燥を圧し潰し、無理やり口角を引き上げる。
「なんと、シュタイナーさんじゃないですか! 素晴らしい、見事に兄を救い出してくれたようですね。さすがレント一の凄腕と名高いだけのことはある。あなたに依頼したのは正解でした。さて、約束の報酬ですが、取り決めの額の三倍の後金をお支払いさせていただきましょう。なに、遠慮はいりません。シュタイナーさんには今後もちょくちょく仕事を依頼することになるでしょうからね。どうぞ私からの信頼の証としてお受け取りください」
「クリフ」
「ああ兄上、ご無事で何よりです! 色々ありましたが、これで全て解決ですね」
「クリフ」
「さぞやお疲れでしょう。すぐにお休みください。あとは僕とシュタイナーさんで万事抜かりなく取り計らいますから」
「クリフ、どうしてこんなことをした」
エッチはクリシュトフの申し出を黙殺し、ミヒャエルは身心ともに消耗した様子で重く沈んだ息を吐いた。
「どうして?」
クリシュトフは心外そうに両手を広げる。
「決まってるじゃないですか。兄上の身が心配だったからですよ。兄上を取り戻すために僕はシュタイナー氏を雇った。他にどんな理由があるというんです? ひょっとしたらどこかに誤解か行き違いがあったかもしれませんが、それも全ては兄上が大切だからこそです。何度でも言いますよ。僕の兄上を想う気持ちには一片の偽りだって……」
「クリフ!」
ミヒャエルが声を高める。クリシュトフは呆気に取られたように言葉を途切れさせた。感情的になったことを恥じるように、ミヒャエルはそっと瞳を伏せる。
「クリフ、ガリウスは死んだよ。もしシュタイナーさんが来てくれなければ、代わりに僕とラルがガリウスに殺されていた」
「ちっ、あの役立たず、酔っぱらいの無能者めがっ」
咄嗟に毒づき、すぐに己の失態に気付く。これではクリシュトフがミヒャエル達を殺させようとしたと認めたも同然だ。
「違うんですよ兄上、僕はつまり、そう、ガリウスが兄上の身を狙っていると知って、それでシュタイナー氏に救出を依頼したんです。聡明な兄上なら分ってくださいますよね? お願いです、僕を信じてください、兄上!」
「クリシュトフ・ドラギッチ。ドラギッチ家当主の名において汝を追放処分とする。今後一切当家に関わることはまかりならない。もしこの決定に背いた場合は、汝の為した悪行を余さず代官府に告発する。速やかに、そして永久に我らの下から立ち去れ」
「兄上……」
クリシュトフはぴくぴくと頬を痙攣させながら、当主が座るべき椅子から立ち上がった。よろめくような足取りで兄へと近付く。
エッチが無言のまま、ミヒャエルを守るように前へ出る。クリシュトフは身を強張らせた。エッチの腰の剣が視界に入る。軟弱者の兄が相手ならともかく、武器を持った傭兵に丸腰で仕掛けるなど自殺行為でしかない。
争うつもりがないと示すため、掌を開いて上に向ける。だが従順な犬のように頭を垂れることはしない。クリシュトフはエッチのすぐ傍らまで体を寄せた。
「夜中までは近付くなと言ったはずだ。そんな簡単な指示も守れないのか。ガリウスも貴様も、傭兵は頭の空っぽなクズばかりだ」
「まったくだ」
計画を破られた憎しみを込めるが、エッチは軽く肩を竦めただけだ。クリシュトフは今すぐにも殺してやりたい衝動を必死に抑えた。
「なぜ出発を早めた。まさか初めから罠だと分っていたのか?」
「連れの勘だ。あんたは信用ならんから、手遅れになる前にさっさと動くべきだと考えた。従って正解だったな」
「連れ、だと?」
クリシュトフの記憶が呼び起こされる。心当りは一つだ。エッチを呼び出した時、宿屋についてきた浅黄色の肌の小娘のことに違いない。
「汚らわしい異民の売女か……」
兄と似た碧い瞳に、濃く暗い陰が落ちていた。
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