第22話 高い酒
「あの、わたし誤解してたかもしれないんですけど、ミアはリンさんのところに売られ、っていうか、リンさんに雇われて働いてるんじゃないんですか?」
莢は歯切れ悪く尋ねた。対してリンの答えは明快だ。
「違うわよ。ミアには部屋を貸してお客を斡旋してるだけ。仕事を受けるかどうか決めるのはミアだし、辞めたければいつうちを出て行っても構わない」
「だったらどうしてこんな……」
「こんな淫らで不潔な商売をしてるのかって?」
莢が口ごもったあとを、あっさりとリンが引き取る。莢はうつむいた。
「ごめんなさい。リンさんとか、ここの人達のことを悪く言うつもりはないんです」
赤猫亭で働いているのは莢も同じだ。貶める権利も同情する資格もありはしない。リンは莢の謝罪には触れることなく話を戻した。
「うちにいる子達の事情はそれぞれだけど、ミアの場合はとある筋からの紹介ね。信用の置けるところだから、あたしはミアとはちょっと会って人柄を確かめたぐらいで何も聞いてないの」
きっと誰もが他人には知られたくない秘密を持っている。けれど本当は知ってほしいと望むことだってあるだろう。
知られたくないと知ってほしいの境界線は目に見えない。たぶん本人にだってはっきりとは分らない。まして莢はミアと出会ってまだほんの数日しか経っていないのだ。
確かにちょっとは仲良くなれたと思う。だが文字通り別の世界に生まれ育った二人だ。心を開き合ったなんてとても言えない。
心配するつもりで踏み込もうとして、かえって傷つけたり、互いに気まずくなったりするかもしれない。実際ミアとは前に一度そんな感じのことがあった。同じ失敗はしたくない。
ミアが話したくなるのを待った方がいい。だから少し様子を見るだけだ。
莢は迷いを振り払い、ミアの部屋の扉を叩こうとして、気付いた。把手に赤い札が下げられている。「仕事中」の表示だ。
半端な拳を作った莢の手がこわばる。部屋の中から声が洩れ出る。ミアだ。間違いなくミアのはずだ。
知らない女の人みたいに聞こえるのは、きっとそういう演技をしているから。いつかミアが言っていた。その方がお客さんが喜ぶんだって。また来てもらえるよう、大袈裟なぐらい気持ち良さそうにしてみせる。
だめだ。早くここから離れろ。扉の前で立ち尽くした莢に、頭の中の臆病者が命令する。ミアのこんな声を聞いたらいけない。ミアだって莢なんかに聞かれたくないはずだ。
上手く動かない足を殴りつけ、莢はふらふらと踵を返した。今ミアのため何ができるのか分らない。何かをするべきなのかさえ分っていない。
だけどもしミアが助けを求めてきたら、その時は自分にできる精一杯をする。莢はきつく唇を噛んだ。
#
レントの街門を出て暫く、道沿いに一軒の家があった。屋根や壁にひどく痛んだ箇所はなく、建てられてからまだそれほど長い年月は経っていないようだ。だがそのわりに妙に荒れ果てた印象を与えるのは、住人がいてもろくに手入れをされていないせいだろう。
今その家の前に馬車が止まった。御者台だけの小さな型で、特に目立つ装飾の類もないが、造りは案外しっかりしており、使われている素材も上等だ。
乗ってきた男はまず馬を立ち木に繋ぎ、それから家の正面へ向かうと、案内を乞うこともなく扉を開けた。
中に一歩踏み入るやいなや不快げに顔を歪める。ひどく埃っぽいうえに、濃い酒精の匂いが立ち込めている。クリシュトフ・ドラギッチのごとき上流階級の人間にとっては耐え難い空気である。
「……まだ日も沈まないうちから酒浸りか。ずいぶんといいご身分だな」
クリシュトフは家主への蔑みを隠そうともしなかった。今にも転げ落ちそうな格好で椅子に腰掛けていたギュスターブ・ガリウスは、クリシュトフを充血した目で見返し、手にした杯の中身を荒々しく飲み干す。
「ご心配なく。酔っぱらっちゃあいませんよ」
口元にこぼれた雫を袖で拭う。しわがれた声音だが、確かに案外しっかりしている。空になった杯を卓に置く。
「それで、首尾はどうです」
「上手くいったに決まっている」
クリシュトフは叩き返すようにして答えた。ガリウスの態度に試すような、さらに言えば侮る色があるのを敏感に察していた。
こういう手合に対しては、どちらが上であるかをきっちりと知らしめておくのが肝要だ。
「しょせんは剣を振るしか能のない輩だからな。策に掛けるぐらい造作もない」
一方的に断じると、卓の上の酒瓶を取り上げて銘柄を確かめる。
「なぜお前がこんないい酒を飲んでいる」
ドラギッチ商会が扱っている中でも最高級の部類の品だ。貴族や一部の上流市民向けであり、間違っても傭兵風情が憂さ晴らしで酔っぱらうためのものではない。
「自分の金で何を飲もうと俺の勝手しょうが。あんたにとやかく言われる筋合いはありませんよ」
ガリウスが濁った息を吐く。クリシュトフはこめかみをひくつかせた。
「その金を工面したのは誰だと思ってる」
威圧する勢いで皮肉を放つ。しかしガリウスはなおも素知らぬ顔だ。クリシュトフは酒瓶を振り上げた。
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