第21話 未回収報告

 雇い主であるリンの部屋の前に立ったまま、莢は暫し固まっていた。今この向こうにエッチはいない。それは分っている。絶対に確かな事実だ。なのに何日か前に目にした光景が、ありありと頭の中で再生される。


 同じ寝台にいたエッチとリン。二人とも裸で、毛布をどけたあと、あらわになったエッチの――。

 莢はきつく目を閉じてぶんぶんと首を振った。自分の頬に張り手を一発、その勢いのまま扉を叩く。


「はーい、どうぞー」

「失礼します」

 くつろいだ調子に誘われて部屋に入ると、莢は胸の詰まるような甘い匂いに出迎えられた。


 努めて表情を変えないようにして、声の主の姿を探す。部屋の真ん中に堂々と鎮座した寝台は空っぽだ。リンは奥の机に向かって座っていた。肌が透けそうな薄い寝着のまま、帳簿の類を付けていたらしい。


「おかえりサヤ。ずいぶん遅かったわね。回収はできた?」

 振り返ったリンが楽しげな笑みを浮かべながら掌を差し出す。傭兵達から取り立てたはずのツケを渡せという意味に違いない。


「すいません、駄目でした。一人も払ってもらえませんでした」

 がっくりとうなだれる。まさに役立たずの極みだ。なにしろ赤猫亭の人達が文字通り体を使って稼いだお金である。莢の給賃だってそこから出される。それがこんなていたらくでは、皆にとても顔向けできない。中にはミアが頑張った分だってあったのだ。どれだけ激しく怒られても文句は言えない。


「あらそう。やっぱりね」

 しかし落ち込む莢に、リンから返ってきたのはお気楽な納得だった。莢はぐぅと呻きそうになった。これはこれでかえってきつい。つまり初めから期待されていなかったのだ。

 ますます縮こまる莢に、リンは泣きぼくろが二つ並んだ目尻を緩めた。


「本当に気にしないでいいの。今日サヤに行ってもらったのはね、傭兵団にいるうちの常連客の顔と名前を憶えてもらうことと、逆にあなたの顔と名前をあの人達に憶えてもらうことが一番の目的だから」


 それはどういう意味だ。不安を覚えて顔を上げる。

 今は下働きとして使われているだけの身だが、客と馴染みにしたうえで、いずれはあっちの仕事もやらせようというつもりだったりするのだろうか。


 たぶんリンはいい人だと思う。けれど莢の元いた世界とこっち側では、常識も倫理も法律も違うのだ。罪悪感など全くなく、それどころかもっとお金を稼がせてあげようという善意から、売春を勧める可能性だってあるだろう。

 莢がだんだん後ろに退っていくのを見て、リンは苦笑した。


「大丈夫よ。サヤに無理やりやらせたりなんてしないから」

 どうやら莢の内心はお見通しらしい。ひとまず足を止め、話の続きを聞くことにする。


「こういう商売をしてるとね、物騒な話も色々と耳に入ってくるわけよ。確かに傭兵はろくでもないごろつきばっかりだけど、それだけに傭兵と親しいってことが知られてると、半端なチンピラなんかには絡まれにくくなるの。女の子につまらないちょっかいを出したり、いざこざを起こしたせいで、傭兵なんて乱暴で厄介な連中とあとで揉める破目になったらたまらないものね」


 莢は目から鱗が落ちる思いがした。さっきとは別の意味で頭が下がる。勝手な都合で働き始めた自分のことを、リンはきちんと考えてくれているのだ。感謝と尊敬のまなざしを向ける莢に、赤猫亭の主は悪戯っぽく唇の端を吊り上げる。


「そうすれば、あたしもサヤのことをもっと働かせやすくなるじゃない。ツケの回収の他にも、女の子ひとりじゃ危ないような場所に行く用事も気軽に言いつけられるってわけ」

「あー……はは、なるほどです。期待に応えられるよう、精々頑張ります」

 莢は乾いた笑いを洩らした。さすがに娼館を切り盛りしているだけのことはある。半分は冗談でも、あとの半分は本気だろう。女は優しいだけでは生きていけない。


「彼は?」

 リンが問う。つい「誰のことですか」と訊き返したくなったがやめておく。あまりに子供じみているし、きっと嫌味にもならない。


「仕事です」

「そんな予定聞いてなかったな。急ぎなの?」

「詳しくは言えないんですけど、明日の朝までにやる必要があって。なるべく早く動いた方が良さそうなので」

「厄介な依頼なのね。でもエッチならどうにかするでしょ。そういう男だもの」


 リンは自慢の品を愛でるように目を細めた。小皺が寄るが、もちろんわざわざ指摘なんてしない。どうせまぶたの動きにつられただけだ。リンはまだ十分に若い。莢は短く会釈をすると、背を向けた。これでもう報告は全部済んだ。


「サヤ、待って」

 二歩進んで足を止める。さすがに気付かなかった振りはできない。

「なんですか、リンさん」

「あんたよくミアといちゃついてるみたいだけど」

「ふぇっ!? や、そんなことは……」


 ない、と言ったら嘘になる。本当なら恋人同士がするようなことだってしているのだ。もっとも莢とミアの場合は子猫がじゃれ合ってるみたいなもので、特に深い意味はない。ないと思う。ないはずだが、端からすればやはり問題ありまくりだったかもしれない。

 いったいどんなことを言われるのかと莢は身構えてしまったが、リンが気にしたのは二人の仲ではなかった。


「ミアから何か聞いてない?」

 意想外に真面目な調子だ。莢ははてと首を捻った。

「何か、ですか。別に大した話はしてないですけど」


「あの子、ここんとこ、やたらいっぱい仕事入れてるのよね。それも前払いの一見客ばっかり。それはいいんだけど。場所代やなんかはちゃんと貰ってるし、ミアの自由よ。でもあんまり無理して体壊されても困るじゃない。もし面倒事に巻き込まれてるとか、お金が必要な特別な事情でもあるなら、なるべく知っておきたいの。もしサヤに心当りがあったら教えて」

 莢は戸惑わずにいられなかった。自分はミアのことを全然知らない。そのことを改めて突きつけられた思いだった。

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