第20話 信じる理由

 もしできるならミルのことを助けてほしい。莢はそっとエッチの手を握った。口を引き結んで佇むエッチは不思議と貴公子然とした雰囲気で、だがその固く厚い掌が剣を握り戦う者であることを明かしている。

 エッチが莢に顔を向ける。莢は掌に力を込めた。刹那見つめ合ったのち、エッチはクリシュトフとの交渉に戻る。


「報酬は?」

 いきなりお金の話にいくのか。莢は思わず鼻白んでしまったが、逆にクリシュトフは文字通り前のめりになった。頬に薄い笑みが浮かびかけるが、不謹慎だとでも自省したのか、すぐに深刻そうな表情に戻る。


「掛かっているのは兄の命です。金貨十枚……いえ前金で十枚、依頼達成後にさらに十枚ではいかがでしょう」

 金貨一枚が一万ランである。赤猫亭の請求額はルウィングが一回あたり一万五千ラン、ゲーデルが一万八千ランだった。それが高いのか安いのか、莢にはよく分らない。

 エッチの声に呆れた調子が混じる。


「秤の片側に乗っているのは金貨一万枚分の財物と実の兄の命だぞ。とうてい釣り合うとは思えんがな」

「だとしても傭兵一人分の一晩の報酬にしては破格のはずです」

 今度はエッチも異論を挟まない。頭の中で損得を計算しているのかもしれない。


「引き受けていただけますね」

 クリシュトフが圧を強める。ほとんど脅しているかのようだ。

「いいだろう。ミヒャエル氏を助けるためというなら、剣を抜く理由として十分だ……もっとも一番は己の稼ぎのためだがな」


「結構ですよ。金のために命を惜しまず働くのが傭兵というものだ。では詳細を説明しましょう」

 クリシュトフは頬を歪めた。あるいは本人は愛想笑いを浮かべたつもりなのかもしれなかった。




 行きに比べ莢の足取りは軽くなっていた。個人的にいいことがあったわけではないし、街の様子が一変したわけでもない。ゴミの散らばるでこぼこ道は相変わらず歩きづらくて、うっかりすると近くの建物の窓から汚物が降ってきたりする。辺りに漂う気配もいかにも荒んでいる。もし自分一人だったら間違いなく危険だろう。それでも莢は今この場にいることがそんなに嫌ではなかった。


「エッチさん、依頼を受けてくれてありがとうございました」

 隣を歩くエッチを見上げる。別に莢が感謝すべき筋合などはない。けれどそういう気分だった。エッチはやはり奇妙だと思ったのか、不審げな視線を莢へと返す。


「一応聞いておく。今度の件はお前には関係ないはずだ。なのになぜ俺が引き受けることを望んだ。まさか報酬の分け前が欲しいわけではあるまい?」

「まさか。えっとですね、実はミヒャエルさんとは前に会ったことがあるんです。少しお話しただけですけど、とても親切にしてもらいました。優しくて素敵だし、あんな人が酷い目に遭うなんて間違ってると思います」


「なるほど、つまりは憧れの相手か。ミヒャエル氏のためなら俺を危険に晒しても構わないというわけだな。お前の考えは理解した。心に留めておこう」

「待ってください、違っ……わないかもしれないですけど」

 莢はむやみに否定しようとするのをあきらめた。客観的にはエッチの言う通りだ。


「別にエッチさんならどうなってもいいって思ってるわけじゃないですよ。本当に。信じてるんです。どんな敵が相手だろうとエッチさんなら負けません。絶対大丈夫です」

 拳を握って雑な予想を力説する。だが下手にごまかしているつもりなどはない。全くもって真剣だ。エッチにも特に怒った様子はなかった。


「俺は本職の傭兵だからな。無頼者の一人や二人に遅れを取るつもりはないさ。だがクリシュトフの説明が全て事実という保証もない……サヤ、ミヒャエル氏は確かに危険な状況にあると思うか」


 普通に考えて質問する相手を間違っている。莢がこの世界に落ちてきて七日、そのわりには奇妙なぐらい馴染んでいるが、常識や世間の事には未だに疎い。ましてや犯罪事件の分析など論外だ。

 だがエッチは至極真面目な調子だった。莢は道端で足を止めた。目をつぶり、心にミヒャエルの姿を思い描く。深い場所に身を沈めて言葉を汲み出す。


「――うん、そう思う。このままだときっと良くないことが起こる」

 根拠など一つもない。まるっきり霊能者のお告げに等しい。なのにエッチはあっさりと頷いた。


「そうか、では俺も本気で動くとしよう。手遅れにならないうちにな」

「どうして……」

「なんだ」

「どうして、信じてくれるんですか? 馬鹿馬鹿しいって、意味が分らないって、わたしの言うことなんか無視するのが普通じゃないですか?」


 莢にはエッチが理解できない。確かに二人の出会いは奇跡だったと思う。だがそれは見方を変えればただの偶然ということで、結局自分達は他人でしかない。

 けれどエッチと共に暮らすことを望んだ莢を、エッチは受け入れた。


 莢とエッチの間に恋愛めいた出来事は起こっていない。年は十歳以上離れているし、エッチにはリンがいる。リンは赤猫亭の主で、同時に最も人気のある娼婦だが、エッチを部屋に泊める時は仕事は抜きだ。ミアからはそう聞いた。それに雰囲気でもなんとなく分る。二人はつき合っている。莢に割って入るつもりはない。


 莢にとってエッチは恩人だ。優しくはないが、頼りにはできると思う。莢がこの世界で生きていくために、とても大事な相手だと言っていい。

 だがそれなら、エッチにとって莢はどんな存在なのだろう。なぜ自分を傍に置いてくれるのか。どうして信じてくれるのか。


 その答えをこれから聞ける。莢は不安と期待がない交ぜになった気持ちでエッチを見つめた。エッチは澄んだ鳶色の瞳で莢を見つめ返すと、信じる理由を教えてくれた。

「勘だ」

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