第18話 楽園
もしも莢一人なら、ちょっと足を踏み入れる気になれない界隈だった。
辺りには大中小のごみが散らかり、道からしてでこぼこと荒れていてとても歩きにくい。建物の壁には汚れや罅割れが目立つ。時々物の割れる音や怒鳴り声が聞こえてくるし、赤猫亭でもおなじみの営みの気配があからさまにすることさえ幾度かあった。
莢は半ば魔境に迷い込んだような気分になりながら、置き去りにされないよう頑張ってエッチのあとを追う。ついていくと決めたのは自分である。だから口に出して文句は言わない。意地でも口には出さないが、人攫いでも出没しそうな場所なのだし、少しは気を遣ってくれてもいいのにと思ってしまう。
莢の尖り気味の視線を察したのか、エッチがふいに振り返る。
「なんだ。もうへたばったのか」
「へたばってません。エッチさんって歩くの速いなって思ってただけです」
息を乱さないよう我慢する。だがエッチにはばればれらしい。
「別に無理する必要はないぞ。俺はお前がいなくても困らないからな。体力的にきついようなら帰っていい」
「わたしは一緒に行くんです。エッチさんだって一緒に来いって言ったじゃないですか。記憶力ないんですか?」
気を遣う方向が完全に間違っている。ここから自分だけ引き返すなど頼まれてもごめんである。
エッチは軽く目を瞠ると、すぐに前へ向き直った。やはり莢に合わせて足を緩めることはしない。
幸い、目的地にはほどなくして着いた。そこそこ大きな三階建てだ。しかし立派という印象は全くない。むしろかなりみすぼらしい感じがする。廃墟と言われても納得できてしまいそうだ。
それでもここは営業中の宿屋であるらしかった。名前はなんと〈楽園〉だ。
宿の経営方針に疑念を抱きつつ中に入ると、すぐ正面に傷だらけの大きな机が据えてあった。その後ろにどっしりと陣取った老女が、エッチと莢をじろじろと見較べ皺だらけの掌を突き出す。
「一万ラン」
いらっしゃいでもなければ、若い男と少女の組み合わせを咎めるでもない。莢は内心でいささか引いた。
「一万だと?」
エッチが呆れ顔をする。
「千の間違いだろう。だがどっちにしろ俺は呼び出されて来ただけだ。部屋は取らない」
まるで聞こえなかったかのように老女は掌を出し続ける。だがエッチは無視して通り過ぎた。莢は少し迷ったすえ、浅く会釈をしてエッチに続く。老女の視線がまとわりついて尻の辺りがぞわりとする。
エッチの体を盾にするみたいにして軋む階段を上った。三階の廊下に入ると、早速手前の部屋から女の人のあられもない声がする。ずいぶん激しい。だがどこか演技っぽい。もちろんそんな気がするだけだ。本当のところなど莢に分るはずもない。
ともあれやはり〈楽園〉はそういう用途で使われる宿らしい。急に足元が頼りなく感じられ、莢はエッチの腕にすがった。直後に後悔する。今こんな真似をしたら、あらぬ誤解をされてしまいそうだ。すぐに離してそそくさと間合いを開ける。
我ながらかなり挙動不審だった気がするが、エッチの方に意識した様子はない。ひょっとすると莢の存在を忘れているのではないか。いっそ蹴飛ばしてみようか。さすがに思い出すだろう。
「仕事の依頼って、相手は女の人なんですか」
下段蹴りの代わりに問いを放つ。赤猫亭で「仕事」をしているのは全員が女性で、客のほとんどは男性だが、他のところでは必ずしもそうではない、らしい。エッチを買いたいという女の人(それとも男の人?)がいても不思議はない。
「さあな。だがどっちにしろ俺は娼夫ではなく傭兵だ。剣より○○○が欲しいというなら他を当たってもらうさ……ここだな」
エッチは奥にある部屋の前で足を止めた。莢はエッチが口に出した卑猥な単語に嫌な顔をしながらも、そっと隣に寄り添う。
鍵は掛かっていなかったらしく、ノックもせず把手を掴んだエッチは無造作に扉を押し開けた。
エッチの眉がぴくりと上がる。莢はエッチの脇から中を覗き込んだ。
建物の外観から想像される通りの、粗末で薄汚れた部屋だった。椅子さえも置いてない。唯一の家具である寝台に、若い男が座っていた。濃灰色の上着に焦茶色のズボンという地味な出で立ちだ。比べて服を着た本人の肌は磨いたように白くなめらかで、砂色の髪は丁寧に撫でつけてられている。このようないかがわしい宿にいることも含め、色々とちぐはぐだ。
莢は間違いなく初対面だった。なのに微妙に既視感がある。そしてエッチにははっきりと覚えのある相手だったらしい。
「知った顔だな」
だが親しげな調子はまるでない。一方の依頼人も上機嫌とはほど遠い気分なようで、エッチの傍にいる莢を見て露骨に顔をしかめた。
「どうして子供がいるんです。使い走りの用などありませんが」
「俺の連れだ。あんたは気にしなくていい。置き物だとでも思っておけ」
誰が置き物か。莢は横目でじろりとエッチを睨んだ。余分なおまけなのは事実だが、いじらしくも一緒についてきたがった少女にはもっとふさわしい役柄があると思う。
だが依頼人は莢よりもっとエッチの言葉がお気に召さなかったらしい。
「手紙には『内密に』と記しておいたはずですが。教養のない傭兵風情には難しくて読めませんでしたか」
「確かに書いてあった覚えがあるな。送り主の底が知れるようなねじくれた筆跡だったが、一応は判読できた」
依頼人はこけた頬を歪めた。聞こえよがしに舌打ちする。
「剣は並以上に使えるし、少しは役に立つ男だと聞いていたが……しょせんは傭兵か。話にならないな」
「ではもう用は終わりだな。サヤ、帰るぞ」
「な? ちょっと待て、いや待ってくださいよ!」
あっさり踵を返そうとしたエッチに、依頼人の男が慌てたふうに腰を浮かせる。あるいは香水の類でもつけているのか、場違いな甘い匂いが漂った。
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