第10話 契約

「赤猫亭で働くのはやめにする、金は返すというなら俺からリンに断りは入れてやる。だがそのあとはどうするつもりだ? 黙ってじっとしているだけでは食い物も住む場所も手に入らんぞ」

「そ、そんなことぐらいっ」


 分っている。頭では理解しているのだ。今の莢はまるっきりの天涯孤独で、この街に児童養護施設的な場所があるとは期待できない。自分の生きる糧は自分で得るしかない。


「働きます」

「どこで」

 エッチがすかさず問いを重ねる。どうせ具体的な考えなどあるまいと見透かされているようで、莢はあえなく黙りかけた。だが待った。当てならある。


 赤猫亭を飛び出して街をさまよっている途中、ミルという男の人に声を掛けられた。ミルは莢が裸足なのを見て、もし困っているなら訪ねるようにと親切にも誘ってくれた。優しくてしかもちょっとびっくりするぐらいの美形、まさに金髪の貴公子だ。エッチなんかとは全然違う。

 莢は挑戦的な気分で言ってやった。


「ここで」

「なんだと?」

 エッチが目を瞠る。莢も自分でびっくりしていた。さっきまでこんなこと思ってもいなかった。だけどもうこの際だ。半ばやけになった気分で前のめりに頭を下げる。


「お願いします! 料理でも掃除でも洗濯でもなんでもしますから、ここに置いてください! あ、や、なんでもっていうのは、普通の仕事ならってことで、その、エッチなこととかはだめですけど……」

 急に弱々しい調子になってしまうが、そこだけはちゃんと念を押しておきたい。

 態度を乱高下させる莢に、エッチは胡乱げに首を振った。


「なぜそういう話になるのかさっぱり分らんぞ。それに俺なことというのはどういう意味だ?」

「だ、だからそれは、二人でベッドでするようなことで……はだ、裸になって」

 莢は顔を赤くしてうつむいた。ちらりとエッチを窺うと、残念なものへ向けるような視線を返される。


「どっちにしろ必要ないな。俺は自分の面倒は自分で見られるし、お前が俺を満足させられるとも思えん」

 やってみなければ分らないだろう、とはさすがに言えない。むしろエッチが少女嗜好のろくでなしではなかったことに安心すべきだ。莢は肩に力を入れて立ち上がった。


「分りました、もういいです。わたしをお世話してくれそうな人なら他にもいますし」

「だがもしお前が望むなら、この部屋に住まわせるぐらいは構わない」

 すぐにも出て行こうとしていた莢は、ぱちくりと瞬きした。ぎこちなく首を回して、疑惑のまなざしをエッチに投げる。


「どうしてですか。わたしなんかいらないんでしょう? それともやっぱりお金ですか? 赤猫亭で働いて家賃代を稼げとでも?」

「お前には借りがある。もしあの時お前が警告を寄越さけなければ、おそらく俺はニコラに後ろから斬られていた」


 莢は息を止めた。瞭然と記憶が蘇る。否、そもそもたった一日で忘れられるはずもない。

 この世界に転位した直後、宙空にある莢は地上で戦うエッチへ危険を叫んだ。その結果としてエッチは自身の命を救い、代わりに別の者の命を奪った。莢の意思が二人の生死を分けたのだ。


「でもあれはただ夢中だっただけで……考えてしたことじゃなくて」

「それでも、お前のおかげで俺が救われたことは間違いない。もっとも実際に戦ったのは俺だからな。今回の仕事の報酬は全て俺のものだ。お前には銅貨一枚も分けるつもりはない」


「わたしだっていらないです。そんなの考えもしませんでした」

「ならば話は決まりだ。うちに住みたいならお前の好きにすればいい。それで貸し借りは無しだ」


 貸しならばそのあと助けてもらったことでもう返されている。エッチだってそのぐらいの帳尻合わせは普通に考えるだろう。

 色々、分りにくい人だ。

 莢は緩みかけた頬を引き締めた。油断は禁物と心の中で自らを戒めながら、きっちりと頭を下げる。


「陣内莢です。これからあなたと一緒に暮らさせてもらいます。よろしくお願いします」

「エッチベルゼリッチ・シュタイナーだ。承知した。お前の身は俺が預かる」

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