第9話 金貨三十枚
「なっ、なにしてっ……」
莢は咄嗟にエッチから視線を逸らそうとして、しかしすぐにかえってまずいと思い直した。目を離したら襲いかかってこられた時の反応が遅れてしまう。
顔を伏せ気味にして、様子をちらちらと覗きながらエッチがズボンに手をかけるのをじっと待つ。半脱ぎの体勢になった時が狙い目だ。動きが不自由なところを突き飛ばし、がつんと頭を殴りつけたらすかさず逃げ出す。
シャツのボタンを全て外し終えたエッチが袖を引き抜く。広い背中がいかにも逞しく、腕も肩も引き締まっていて硬そうだ。もし裸のエッチにぎゅっとされたらどんな感じがするんだろう。ふっと想像をめぐらしかけた刹那、エッチが振り向く。
「んぷっ」
不覚を取った。汗と埃の匂いに抗い、エッチが放り投げてきたシャツを引き剥がす。やばい。けものと化した男が今にも飛びかかってくるかとあたふたしながら寝台から腰を浮かせた莢は、エッチの予想外の行動に戸惑った。
ズボンはもとより上の肌着さえ脱がないままに、エッチは半端な姿勢で固まる莢を素通りした。部屋の隅の炊事場らしき方へ行って手際良く火を起こす。椅子に腰を下ろして待つこと暫し、お湯が沸くとおもむろに立ち上がり、飲み物の用意を始める。
「ほら」
「あ、どうも」
莢は差し出された熱いカップを受け取った。そっと口をつけてみる。どうやらハーブ系のお茶らしい。少し強めの爽やかな香気が喉を抜けて身の腑へ落ちる。内側が満たされるにつれて、さっきまで抱いていた怒りや苛立ちが薄まっていくような気がする。我ながらちょろい。これでは甘い飴玉であやされる子供と大差ない。
けれどこういう心遣いができる人なのだ。赤猫亭では誤解があったのかもしれない。莢は己の短慮を反省しつつ、意外と整ったエッチの顔を見直した。
「で、俺になんの用だ。お前の客になってほしいのか?」
危うく中身の残ったカップを投げつけそうになった。やっぱりこの男は最低だ。どうしてくれよう。暴力的な衝動がふつふつと滾るが、お茶にも器にも罪はない。まずはきちんと全部おいしくいただくと、莢は大きく息をついて姿勢を正した。
「あなたはわたしを売ったんですか」
真っ正面から突っ込む。嘘もごまかしも許さない。もしも莢の早とちりならその時は素直に謝る。
「金貨三十枚だ」
少女と向き合う鳶色の瞳は平静だった。
そうなんだ、と思う。これでもう用は済んだ。
「お邪魔しました。お茶ごちそうさまでした。さようなら」
「ちょっと待て」
これっきり決別しようとした莢より早くエッチが腰を上げた。荷物を探って厚い生地の布袋を取り出すと放って寄越す。莢は戸惑う間もなく受け止めた。ずしりと重い。
ちゃりちゃりした音と、丸っこく硬い手触りからして、中身は貨幣の類だろうか。
「俺が預かって保管しておくつもりだったが、信用できないのなら渡しておく。お前自身の代金だ。お前の好きにすればいい」
莢は混乱した。エッチはお金欲しさに莢を裏切ったはずだ。なのにどうして莢に渡すのか。本当はもっとたくさん貰っていて、差額を掠め取るつもりでいるのか。しかし莢には頼りになる後ろ盾も親しい仲間もいない。無力なひとりぼっちの小娘だ。あえて姑息な手段を取らずとも、問答無用で全てを奪える。
ならば莢のためにしたことだと言うのか。これが。金貨の入っているらしい袋を、きつく掴み締める。
「ふざけないでよ。いくらこんなの貰ったって、できるわけない」
赤猫亭でされそうになったことを考えるだけでおぞけが走る。だがエッチはまるで呆れてでもいるみたいに眉をひそめた。
「金額が不満なのか?」
「違う! 本当に分らないの!? そもそもお金で体をどうこうっていうのがだめなのに、本人の意思を無視してなんて許せないに決まってる!」
「いや、俺はちゃんと確認したぞ。お前は自分でリンのところで働くと決めただろうが」
「はあ!? そんな馬鹿なことあるわけ……」
否定する言葉が急速に小さくなっていく。思い出した。エッチの言葉は確かに正しい。赤猫亭で目覚めたあと、莢は住み込みで働くことに同意した。
「……だって、まさかそういう意味だなんて思わなかったし」
拗ねるようにぼそりとこぼす。未成年者にそういう仕事をさせるなど、莢の生まれ育ったところでは完全に犯罪だ。想像できなくても仕方ないだろう。
決まり悪くうつむく莢に、エッチはことさら怒りはしなかった。だがこの世界の現実を容赦なく突きつける。
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