第8話 ギブ

 その建物の扉に莢の意識は吸い寄せられていた。暫し注目して眺めてみる。ときおり出入りするのは体格のいい者ばかりで、しかも腰に剣を下げていることが多い。つまりはエッチの同類だ。おそらくここで当りだろう。


 扉が開いた時には、賑やかな話し声や陽気な笑いが洩れ聞こえてくる。雰囲気は悪くなさそうだ。全くの部外者とはいえ莢はほんの小娘であり、荒くれどもを警戒させるような存在とはほど遠い。勝手に入っても問答無用で叩き出されはしないだろう。しないといいな。

 ごくりと唾を呑み込むと、莢は傷だらけの木の扉に手を掛けた。少しずつ慎重に引き開ける。


「舐めてんじゃねえぞクソガキがっ! 今度俺にでかい口叩いてみやがれ、ばらばらに刻んで豚の餌にしてやっからな! 覚えとけ!」

 いきなり激しい罵声に出迎えられる。ぎょっとして立ち竦んだ莢の方に、顔の下半分を髭で覆った男がのしのしとやってくる。髭男は途中で後ろを振り返って唾を吐き捨て、再び前を向いた時にはもう莢のすぐ傍に迫っていた。慌ててよけようとしたが間に合わない。莢はまるで熊とぶつかったみたいに弾き飛ばされた。


「ん、なんだあ?」

 髭男が不機嫌さを丸出しにして、床に尻をついた莢を睨みつける。正直莢はびびっていた。上背はまだしも、髭男の腕の太さと胸の厚みは半端ではなく、さながら樽を組み合わせて作った怪物だ。


「クソが、人様にぶつかっといて詫びの一つも入れられねえのかよ。どいつもこいつも近頃のガキはほんとに礼儀ってもんを知らねえらしいなあ」

 ふざけるな、そっちがよそ見しててぶつかってきたんじゃないか。莢は瞬間むっとしたが、ぎりぎりでこらえる。相手はとうていまっとうな大人とは思えない。たとえ理屈ではこちらが正しくても、素直に謝りはしないだろう。

 だがせっかくの我慢も髭男には通じなかった。片手で胸ぐらを掴まれ、軽々と吊り上げられる。首元がぐいっと締まって息が苦しい。


「ガキが舐めた目付きしやがって。口で言って分らねえなら体にしつけてやる」

 髭男が拳を握る。こんな岩みたいな手で殴られたら、きっとただ痛いでは済まないだろう。我知らず莢の身はこわばり、固く目をつぶってしまう。


「やめとけ」

 だが破滅的な衝撃は訪れず、代わりに割って入った声に、期待と不安の入り混じった気分で目を開ける。エッチだ。やはりここにいたのだ。

 エッチは髭男の拳をがっちり押さえ、至近から視線を射込む。


「そいつはリンのところの娘だ。手を出したら高くつくぞ」

「エッチ……このクソガキが」

「俺がクソガキなら、あんたはボケジジイだな、ギブ。もうさっき言ったことを忘れたのか? 俺を刻んで豚の餌にするんだろう。やってみろよ」

 エッチの挑発に、髭男ことギブは怒りで顔を歪ませた。ただでさえ太い腕に力がこもり、ごつごつした筋肉が盛り上がる。


「てめえは近いうちにこの俺が絶対潰す。それまでせいぜいイキってやがれ」

 ギブはエッチに掴まれた手を強引に振り払うと、莢の胸ぐらを突き離して背中を向けた。


 奇妙なほど静かに扉が閉まる。ギブの姿が完全に消えると、莢は床の上にへたり込んだ。ぐしゅっと鼻を啜り上げる。怖くて泣きそうだったとかそういうことでは全くない。首を締められたせいでちょっと汁が垂れてしまっただけだ。目元をこすって体裁を繕うと、莢はようやくエッチを見上げた。


「なぜお前がここにいる。俺に何か用か」

 莢を見返してエッチが問う。莢は唖然としてしまった。この男、とぼけているとかではなく、本当に疑問に思っている風情だ。


 いたいけな女の子を、あんないかがわしい場所に置き去りにしておきながら、かけらも罪の意識を感じていないのだ。

 体の奥底から熱いものが込み上げる。しずくとなってこぼれ落ちそうな弱さを莢は根性で押しとどめた。


「エッチさん、あなたはわたしを助けてくれました。そのことには感謝してます、本当に。でも、だからって、そのあとにしたことは許せない。もしも上手く逃げられなかったら、わたし今頃……」

 どこの誰とも知れない相手に、大切なものを奪われていた。身を震わせる莢に、エッチは素っ気なく背中を向ける。


「とりあえず俺は家に帰る。来たければついて来い」

 優しい慰めも、耳当りのいい言い訳もない。どこまでもふざけている。これで素直に従うと思っているのか。のこのこついて行ったらそれこそどんな目に合わされるか分らない。


「行きます。逃がさないから」

 だが莢は足を踏ん張って立ち上がった。

 噛みつかんばかりの視線を向けて、エッチのあとを追う。エッチは一度も振り返らなかった。だがあえて莢を邪険にすることもなく坦々と前を歩いて、やがて行き着いた先はやや古びた集合住宅らしい建物だった。暗い階段を上がり、廊下に並んだ扉の一つを開ける。


「そこに座れ」

 エッチが指し示したのは寝台だ。莢はいささか怯んだが、狭くごみごみした室内に椅子は一脚だけである。


「それじゃ……わっ」

 おずおずと腰を落とすと頼りなく尻が沈んで、体勢を崩した莢は後ろに倒れそうなほど仰け反った。ずいぶんと粗雑な造りだ。ただ寝るだけならまだしも、エッチのような逞しい男の人がこの上で激しく動いたら壊れてしまうのではないか。


 馬鹿なことを考え、熱くなった頬を押さえて下を向く。冷静にいこう。エッチを変に誤解させて刺激するのはまずい。

 気を取り直して顔を上げ、莢はそのまま呼吸を止めた。

 エッチが服を脱いでいた。

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