第7話 ミル

 しまった。大失敗だ。赤猫亭から逃げ去ってすぐ、莢は自分の迂闊さに歯噛みした。靴を履くのを忘れていた。記憶は曖昧だが、確か寝台の傍にちゃんと置いてあったように思う。いくら切羽詰まっていたとはいえ、部屋から抜け出す前に気付きたかった。


 地面が乾いているのと、靴下は履いたままだったのがせめてもの救いである。不安な足の裏の感触に萎えそうになりながら、莢はどことも知れない異国、どころか異世界の街並を走っていく。


 建物は石か煉瓦造りが多いようだ。高くても五、六階ぐらいだろう。周りにいるのは全て普通の人間で、少なくともぱっと見える範囲では、耳が長くて尖っていたり、角が生えているような種族はいない。元の世界で言うところの白人的な容貌の持ち主が多いが、莢のように黒髪黒目で淡黄色の肌や、もっと濃い褐色から黒に近い肌の人もちらほらいる。


 服装はおしなべて地味で野暮ったく、緑のパーカーにインディゴのデニムという全くお洒落ではなかったはずの莢の格好が、ここではかなり目立ってしまっている。

 なにせ絶賛逃亡中の身の上である。勘に頼りつつもなるべく街の中心から遠ざかりそうな方向を選んで進んでいくうちに、ついに一番端までたどり着いたようだった。行く手に門が見える。つまり街と外との境界だろう。勝手に出ても大丈夫なのかは不明だが、様子を知るためにも莢はとりあえず近付いてみることにした。


 門の向こう側に停まっていた馬車が、ちょうどがらがらと音を立てて走り出す。こちらへ来る。莢の鼓動は不規則に跳ねた。トラックに轢かれそうになった光景が瞬間的に蘇り、足が地面に縫い付けられたように動かない。


 道端で硬直した莢の前を、馬車は悠々と通り過ぎる。しかし胸を撫で下ろすいとまはなかった。馬車は少し先に進んだところで停まり、御者台から人が降りてきた。もしや赤猫亭の追っ手だろうか。莢はいっそうの焦りを覚えたが、少し落ち着けと理性の声がたしなめる。馬車は街の外から来たのだ。後ろから莢を追ってきたわけではない。

 すぐにも駆け去りたい衝動をこらえ、なるべく注意を引かないように莢はそっと踵を返した。


「君、ちょっと待って」

 思わず飛び上がりそうになった。ひょっとして自分を呼んだのか。いやいやそんなはずはない。違うに決まってる。下手に反応したらそれこそ怪しまれてしまう。あくまで自然に、知らない振りで遠ざかるのが吉だ。


「君はどうして靴を履いてないんだ。どんな事情があるのか是非聞かせてほしいな」

 まごうことなく莢のことだった。他に裸足の者などいるはずもない。

「別になんでもないですから。ちょっとうっかりしただけなので」


 頑張って無表情を繕い、ゆっくりと振り返りつつ声の主を窺う。莢は軽く驚いた。相手は金髪の若い男の人で、見惚れるほどの美形である。女の子なら誰もが憧れて不思議はないぐらいだが、今は声を掛けられても嬉しくない。早くどこかへ行ってほしいと願う莢に、金髪美男子は物柔らかな笑顔を浮かべてみせる。


「大丈夫、そんなに警戒しないでいいよ。僕はミル。ドラギッチ館の主をしている。もし何か困っているとか、安心して寝泊まりできる部屋を探してるとかなら、いつでも訪ねて来るといい。この街の人に訊けば場所はすぐに分るよ。君の名前は?」

 莢はすぐに答えることをためらった。確かにミルは悪い人には見えない。しかしエッチはともかく、リンだって悪い人には見えなかった。


「……サヤ、です。ありがとうございます。その時はお願いします」

 悩んだすえに頭を下げる。やはり人の善意はなるべく疑いたくない。ミルは嬉しそうな顔をした。


「サヤ……うん、とても素敵な響きだね。館の者達には話を通しておくから、君さえ良ければいつでもおいで。それともこのまま一緒に来るかい?」

「いえ、それは大丈夫なので。先に行かなきゃいけないところがあるから」


「そうかい。じゃあ気をつけてね」

 莢が断ってもミルは気分を害したふうもなく、再び馬車に戻ると走り去っていった。


 しっかりするんだ。莢は自分で両の頬を張った。このままただやみくもに逃げ続けていても未来はない。誰も知らない世界にひとりぼっちで生きていけるわけがないのだ。


 まずはもう一度エッチに会う。莢は強く心に決めた。どんなつもりで莢を赤猫亭に置いていったのかを問い詰め、答えによってはグーで殴る。

 ゆっくり気を鎮めて目を閉じる。まぶたの裏の暗闇に、エッチの姿を思い描く。なぜか確信があった。莢とエッチの間には見えない繋がりがある。感覚を研ぎ澄ませれば、きっと居場所が掴めるはずだ。


 ――こっちだ。

 莢は目を開いた。街門から離れ、もと来た方へと歩き出す。細い糸を手繰るようにして足を進めていくうちに、通りにいる人の数が増えていく。皆が自分を見ている気がする。というか明らかに見ている。物珍しげな視線に怯みながらも、今は自分の直感を信じるしかない。


 やがて莢は立派な建物の多い区画へと入っていた。真っ直ぐ行った先は広場になっているようだ。おそらくこの街の中心だろう。だが莢は途中でもっと細い道の方に曲がった。急に雰囲気が怪しくなる。建物の間隔が狭いせいで差し込む光が少なく、陰になりがちな地面には雑多なごみが散らばっている。破れている窓も少なくない。この壁に残っているどす黒い染みは、もしかして血痕だろうか。人の数が減った代わりに、莢を見る目が単なる興味から品定めする気配へと変わっている感じがする。莢は一度ならず回れ右したくなった。

 だけど間違いない。エッチはもうすぐそこにいる。莢は足を止めた。

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