第5話 赤猫亭
「サヤ」
エッチしたいなー、もといエッチ・シュタイナーは音の響きを確かめるように莢の名を呼んだ。莢は微妙に面映ゆく感じたが、エッチには特に馴れ合うつもりはなさそうだった。
「サヤ、改めて問おう。お前は誰だ。人か、それとも化物の類か。何が目的だ。なぜ俺の元へ現れた」
「そんなこと知りません。わたしはただの小学生です。事故に遭いそうになって、光のトンネルをくぐって、気付いたらあそこにいたんです。わたしはここじゃない別の世界から来たんです」
「それで?」
「それで全部です」
簡単に信じてもらえるとは思えない。だけど真実だ。たとえ怒鳴りつけられようと、他に答えられることはない。
「そうか。まあいい」
だがエッチはあっさりと引き下がった。莢はかえって拍子抜けしてしまう。
「ほんとにこんな雑な説明でいいんですか? わたしだって何がなんだかさっぱり分ってないのに」
「稀に異なる世界から落ちてくる者がいるという話は聞いたことがある。それに俺はお前が空から降って湧いたのを実際に見ているからな。疑いはしない」
「……ありがとうございます」
エッチが適当な性格で助かった。だが逆に元の世界へ戻るための役には立ってくれそうにない。果たしてそんなことが可能なのかは定かでないが。
「ここってエッチさんの家なんですか? 他の人は?」
気を取り直して周りに注意を向けると、部屋の外から物音や生活の気配が伝わってくるのが分る。おそらく迷惑を掛けただろうし、家族の人にも挨拶をした方がいいかと思ったのだが、何がおかしいのかエッチは皮肉そうに口の端を曲げた。
「確かにしょっちゅう寝泊まりしてはいるがな。違う。赤猫亭、娼館だ」
ショウカン? って、なんだっけ。
「お前が住み込みで働けるよう、もう話はつけてある。嫌なら断っても構わんが、本当に落ち人なら行く先も暮らしを立てる目処もないだろう。好きに決めればいい」
いきなりの展開に戸惑うが、今後の当てがないのは全くの事実である。右も左も分らない異世界で、莢の独力で生きていくことなど不可能に決まっている。
赤猫亭という名前からすると、おそらく旅館か料亭のようなところなんだろう。その下働きとかなら、自分でも勤まりそうな気がする。
エッチは莢を助けてくれた恩人だ。その紹介なのだし、どうせ他に考えもない。迷いながらも決めてしまう。
「分りました。やってみます」
「よし。では主人を呼んでくる」
エッチが部屋を出ていくと、莢は寝台から下りて背筋を伸ばした。ところどころ強張っている感じはするものの、体には特に痛いところもなく、動かしているうちにいい感じにほぐれてくる。
パーカーもデニムも莢が元から身に着けていたものだ。乱れてはいないし、意識を失っている間に脱がされたりした可能性は低そうだ。だいたいもしエッチが莢にエッチなことを(ややこしい)するつもりなら、そんな姑息で卑怯な真似はせず、起きてる間に堂々と迫ってきそうだ(もちろん、してほしいとかでは全くない)。
いきなり部屋のドアが開いた。莢は一瞬びくりとしたが、部屋に入ってきた相手の姿を見て緊張を緩めた。
女の人だ。癖のある赤毛が艶やかに揺れて、甘い匂いを漂わせる。左の目尻に二つ並んだ泣きぼくろが妙に可愛らしくも色っぽく、まるで誘惑するかのようだ。きっとずいぶん男の人にモテるだろう。胸も大きいし。
この人が赤猫亭の主なのか。エッチとはどういう関係だろう。やっぱりエッチな……馬鹿なことを考えるのはやめにする。
自分を小突きたくなった莢のことを、赤毛の女がじいっと眺める。莢はどうにも居心地悪かった。まるで裸を見られてるみたいな感じがする。やがてそろそろ文句の一つも言いたくなってきた頃、紅を塗った唇が満足そうに微笑んだ。
「いいわね。頑張ってくれそうだわ」
気安げに近付くと、肌がすべすべなうえにもっちりと柔らかそうな右手を差し出す。
「リンよ。エッチから聞いた通り、うちであなたを預かるってことでいいのかしら?」
「は、はい、サヤと言います。お世話になります。よろしくお願いします」
莢はリンの手を握り返し、しっかりと頭を下げた。
「こちらこそよろしくね、サヤ。あたしのことは母親だと思って、なんでも気軽に頼ってちょうだい。ただし、わがままを言う時はなるべく可愛くおねだりすること。いいわね?」
情感たっぷりに片目をつぶる。もし莢が男子なら、これだけでのぼせ上がってしまいそうだ。
「お母さん、にしては若過ぎませんか?」
どれだけ上に見積もっても、三十歳を越えているとは思えない。
「赤猫亭はあたしの家だからね。ここにいる子達はみんなあたしの娘も同然ってこと。それでサヤ、あなたさえよければ、早速今日からでも働いてもらえるわ。経験はどのくらいあるかしら」
莢は少し考えた。家事なら基本毎日やっていたが、あまり経験の足しにはならない気がする。おそらくここには電気もガスも水道もない。炊事も洗濯も掃除もはるかに大変に決まっている。
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