第4話 目覚め

 背中が痛い。ベッドのクッションが全然効いていないようだ。毛布もやたらごわごわするし、寝心地が大変によろしくない。

 筋肉を軋ませるようにして身動ぎし、ゆっくりと目を開いた少女は、そのまま幾度か瞬きをした。


 黒く煤けたみたいな天井に、灰色の地味な壁。明らかに自分の部屋ではない。全く見覚えのない場所である。

 ここはどこ? わたしは誰?


 頭がおかしくなったのかと一瞬焦るが、幸い自分のことはすぐに思い出すことができた。名前はさや陣内じんない莢だ。市立桜台小学校の六年生。

 紐を引っ張るように次々と一連の場面が思い浮かぶ。図工室への呼び出し、クラスの男子からの告白、美優みゆ達の待ち伏せ、いかにもやばい男が暴れて、大型トラックが迫り来る。そうだ。莢は今にも轢かれかけていた。


 するとここは病院かもしれない。もし交通事故に遭ったのなら、少しばかり記憶が混乱していてもおかしくない。

 きっとあのあとに起こったのは夢だったのだ。だいたいあまりに非常識だ。目の前にいきなり光の穴が開き、くぐり抜けた先はもう別の世界だった。本物の剣での斬り合い、真っ赤な血が恐ろしい勢いで噴き出して、命が容赦なく奪われる。しかしもし莢が大人しく黙っていれば、あの時の人が首を斬り裂かれることはなかっただろう。代わりに殺されることになっていたのは。


「起きたか」

 莢は危うく悲鳴を上げるところだった。激しい動悸を感じながらそっと視線を動かすと、椅子に掛けていた男がおもむろに立ち上がり、莢の元へと近付いてくる。


 色の褪せた厚手のシャツに革のズボンという出で立ちはいいとして、男の腰には剣が吊るされていた。芝居の小道具や飾りの品とは思えない。鞘に納められて刃は見えないにもかかわらず、生々しい血の匂いが洩れ漂ってくるかのようだ。


 剣の醸し出す雰囲気に比べれば、持ち主の人相はまだしも受け入れ易かった。薄茶色の髪は短く刈り込まれ、端整な面立ちをすっきりと見せている。鳶色の瞳にはどこか風雅な趣さえあって、格好さえきちんとすれば、貴族の一員と言っても通りそうだ。


 ただし柔弱な印象は一切ない。必要とあらば、ためらいなく腰の剣を抜く。そんな恐ろしい場面が、当り前のように想像できてしまう。

 莢の背筋がざわりと粟立つ。今はこの男と二人きりなのだ。小学生の自分がひどいことをされるはずはない、そう無邪気に信じ込めるほど莢はお気楽な性格をしていない。実際に美優は変質者に襲われた。ましておそらくこの場所には自分の知る法律は届かない。莢は体に掛かっていた毛布を引き寄せると、手足にぎゅっと力を入れた。


 隙を見せたらだめだ。心に気合を纏う莢だったが、男の鳶色の瞳と目が合い、途切れていた線が繋がる。

 この人だ。


 トラックに跳ね飛ばされるよりはと未知なる光の中に飛び込み、この世界へ落ちてきた莢を受け止めてくれた人に違いない。

 直後に気を失った莢を、保護して安全な場所まで連れてきてくれたのだろう。まさに命を拾われたに等しい。


 めいっぱい尖らせていた神経が緩み、反動で涙ぐみそうになったが我慢する。

 まずは感謝を伝えるのが先だ。そう思いはするのだが、上手く言葉が出てこない。波打つ莢の気持ちをなだめるように、男は浅く頷きかけると寝台の端へ腰を下ろした。


 この人なら大丈夫だ。莢は落ち着いて身を起こした。莢の警戒が解けたのを察し、寝台に座ったまま男がさらに距離を詰める。

「俺はエッチしたいなー。お前は?」


 ――え。

 莢の頬がぴきりと引き攣る。この男、今なんと言いやがった。毛布を固く握って引き寄せる。


「……いやです」

「イヤデス?」

 男は眉をひそめた。まさか拒否されると思っていなかったのか。冗談ではない。いざとなったら噛み付いてでも抵抗してやる。


「ではイヤデス、お前はどこの何者だ。いったいどうやってあの場に現れた」

 話が飛んだ。

「ええと、ちょっと待ってください」


 間を取ろうと片手を突き出す。緑色の袖が目に入り、ちゃんと自分のパーカーを着ていたことにほっとする。いくらか冷静になった頭で、今のやり取りを思い返し考えを巡らせる。


「もしかして、なんですけど……エッチしたいなーって、あなたの名前ですか?」

「略さないならエッチベルゼリッチ・シュタイナーだ。俺を知ってる連中の間ではエッチで通る」


 どうやら「エッチしたいなー」ではなく「エッチ・シュタイナー」だったらしい。

「俺の名前がどうかしたか?」

「いえなんでもないです。すいません」


 莢は赤らんだ面を伏せた。悪いのは勝手に勘違いした自分だ。紛らわしい名前だと責める権利などあるわけないし、説明しようにも「エッチする」という言い回しが通じるとも思えない。そもそも自分は今何語を喋っているのだろう。どうして会話できているのだろう。悩んでも答えの出そうにない疑問は棚上げにして、莢は軽く姿勢を正した。

「わたしは陣内莢です。サヤって呼んでください」

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