第3話 遭遇

 血の匂いが鼻をつく。喚き声が耳を抉る。閃く刃の輝きが目に痛い。

 その男は戦いのさなかにいた。端整な顔立ちに荒々しい闘気を刻み、鳶色の瞳は鋭く研ぎ澄まされた視線を放つ。殺意と恐れが交錯する中で、馬上にあって縦横無尽に剣を振るい、苛烈な意思の力で障害を切り払う。


 瞬時に惹きつけられていた。

 理解をすっ飛ばして直感する。この新たな世界と莢を繋ぐもの。

 不可視の糸で吊り上げられたみたいに、斬り合いの真っ只中にいる剣士がふっと頭上を仰いだ。目が驚きに見開かれ、宙空にある莢と視線を結ぶ。


「危ない、後ろっ!」

 瞬間、莢は叫んでいた。剣士は間髪を容れず振り返り、背中から不意打ちしようとしていた相手の喉首を薙ぎ払う。鮮烈な赤色が噴き出し、その一滴ごとに命がはらはらと散っていく。


「……あれ?」

 莢の体がふいに傾く。潜り抜けてきた異空間の穴が閉じ、境界に浮いていた莢はこちら側へ押し出された。大地の重力に引かれて落下を始める。


「ひゃっ」

 思わず悲鳴を上げてしまう。奇妙に長く感じられる時間が過ぎて、行き着いた先は剣士の腕の中だった。途端、雷に打たれたような衝撃に頭頂から足の先までを貫かれる。心が混沌に呑まれかけ、だが莢の身を支える腕から流れ込む温かさに、かろうじて自分を保つ。


「くっ、なんだお前は!?」

 莢を抱えた剣士が頬を歪める。まるでひどい頭痛にでも襲われているみたいだ。だが案じる余裕などはない。莢の神経に掛かる負担ももはや限界を超えていた。


「わたし……わたしは……」

 陣内じんないさや。小学生。たったそれだけのことさえ言い果たせずに、莢はふっつりとまぶたを落とした。


     #


 これまでの行程は順調だった。日が落ちる前にこの峠を抜けてしまえば、あとは整備された平坦な道のりが続く。適当な場所で一晩野営したのち朝に出発、明日の午前中には目的地のレントの街へ到着できる。


 文字通りここが最後の山場だ。隊商の護衛として先頭を行く傭兵は、前方から近付く蹄の音に気付くと、鳶色の瞳に鋭い光を宿した。まず四、五騎といったところだろうか。走らせる速度からしても、荷馬車の類ではあり得ない。


 後ろを振り返り、隊商を率いる長に止まって待つよう指示を出す。そして傭兵自身は前に馬を進ませると剣を抜いた。

 まだ襲撃と決まったわけではない。だがこの峠では過去にもしばしば盗賊による被害が起きている。警戒を強めるのは当然だ。


 懸念はほどなく現実となった。薄汚れた身なりの武装した集団が、道の先に姿を見せる。総勢五騎は推測した通りだが、予想が当ったところで喜べるはずもない。未だ距離を隔てていながらも、明確な害意が吹きつける。


「ニコラ、俺が相手をする。あんたは隊を守って適当な位置まで下がってろ。後ろにも警戒しておけよ」

 間合いを冷静に測りつつ、傭兵はもう一人の護衛へ指示を出した。ニコライアスは同じ傭兵団に所属している一応は仲間だが、並んで共に戦うには不安が残る。自分ひとりの方がかえって存分に剣を振るえる。


 武装集団は既に指呼の間へと迫っていた。武器を手にした明らかな襲撃態勢だ。五対一という不利な状況ながら、傭兵に退くつもりは毫もなかった。優雅にすら見える所作で剣を構える。


「へりゃあーっ!」

 あたかも傭兵の動きに誘われたかのごとく、にきび面の小僧が裏返った雄叫びを上げて突っ込んできた。勢い任せの未熟な一撃を傭兵は難なく打ち払い、返す刀ですかさず相手の胴を斬り払う。敵はあえなく落馬して地面に伏した。おそらくもう永遠に立ち上がることはない。

 開戦早々鮮やかな手並みを見せつけられて、残る四騎は慌てた風情で手綱を引いた。


「馬鹿が先走りやがって。お前ら、広がって囲め!」

 頭目らしき男に命じられ、賊達は傭兵を中心に置いて扇状に散開しようと動き出す。


 策としては正しい。だがしょせんは烏合の衆だ。傭兵が先んじて前に出るや連繋はもろくも崩れ、逸って横から突出してきた一騎を迎え撃ちに斬り捨てる。

 形勢はあっという間に三対一へと変わっていた。数の上では未だ劣勢ながら、流れは完全に傭兵の側にあった。


「ちくしょうが、全員で一気にやるぞ! 掛かれ!」

 今度こそ三騎の賊は揃って襲いかかってきた。だが次々と繰り出される敵の攻撃を傭兵は右に左にと隙なく捌き続け、合間に斬り返すごとに賊側の手傷ばかりが増えていく。


 優勢に戦いを進めていながら、傭兵は背後から近付く騎馬の気配に舌打ちを洩らしそうになった。やはりニコライアスなどと組んだのは間違いだった。おそらく助勢するつもりなのだろうが、今下手に割って入ってこられても邪魔でしかない。それよりも背後からの挟撃に備え、隊商の側に付いている方がよっぽど役立つ。


 だが戦いの真っ只中に味方を罵倒するなど愚行でしかない。まずは目前の敵に集中するのが先決だ。

 ひときわ大柄な敵の上段斬りを打ち返し、追い討ちを放つべく強引に間合いを詰めようとした時だった。傭兵は異様な感覚に掴まれた。わけも分らず衝動に導かれるまま上を向く。


 なんだあれは?

 刹那呆然としてしまう。沈みかけた夕日よりもはるかに近く、剣を伸ばせば届きそうな宙空に、光の円が穿たれていた。波紋のように揺らめく輝きの中には、見慣れぬ服装の少女がいる。驚愕する傭兵を少女が見返す。


「―――、――っ!」

 次の瞬間、未知の言葉の切迫した響きが傭兵の意識を打った。わずかもためらわず、傭兵は振り返りざま剣を走らせる。背後から不意打ちしようとしていた裏切者へ、ふさわしい報いをくれてやる。


 ふっと空が暗くなる。再び振り仰ぐと、頭上にあった異様な輝きが失せていた。己の幻覚を疑うより先に、謎の少女が傭兵の元へと落ちてくる。咄嗟に受け止めた瞬間、頭の中に猛烈な火花が散った。心の中を底まで引きずり出されるかのような激しい目眩に襲われ、傭兵はひどく顔をしかめる。


「くっ、なんだお前は!?」

 きつく奥歯を噛み締めながら腕の中を見下ろす。謎の少女は朦朧と瞳を揺らし、血の気の引いた唇を微かに動かす。


「わたし……わたしは……」

 たどたどしく短い掠れ声ながら、今度は確かな意味を成す。だが少女はすぐに力尽きたようにまぶたを落とした。くたりと崩れた薄い体を揺り起こそうとして、傭兵は危険な気配に面を上げた。どうやら奇跡と戯れる時間は終わりらしい。片腕で少女をがっちりと抱え直す。


「お前の相手はあとだ。まずは仕事を片付ける」

 傭兵と同じく、あるいはそれ以上に状況についてこれない様子だった賊達も、既に意識を切り替えていた。刃の切っ先をこちらに向けて、じりじりと迫りくる。

 傭兵は鳶色の瞳に敵の姿を捉え、片手に掴んだ剣に闘気を込めた。

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