あれで、本当にちゃんとこちらが見えているのかと疑ってしまうのは、無理もないと思いたい。

 ともかく、さすが天才と何とかは紙一重と言われている変人だ。

「熱い視線を感じるね」

「へっ?」

「もしかして、僕に興味があるのかな?」

「そ、そういうわけじゃ……」

「おや、それは残念。ところで、君の名前は?」

 問われて、はたと気が付いた。先輩は名乗ってくれていたのに、私は挨拶もろくにしていないどころか、空いている適当な席に着いて、彼の顔をじろじろと眺めていたのだ。

 何という失礼な態度。これでは、怒られても仕方がない。

 だというのに、先輩の口元は、変わらずにこにこと微笑んでいた。

 私は慌てて立ち上がり、頭を下げる。

 ばさりと、長さの揃った髪が、顔の横に落ちた。

「すみません、挨拶が遅れました。一年三組、白瀬小鳩です。よろしくお願い致します!」

「あはは、元気が良いね。それに礼儀正しい。中学では、運動部所属だったのかな?」

 声を上げて笑う先輩。その笑い声につられて、私は顔を上げた。

 質問に答えるべく、姿勢を正す。

「いえ、吹奏楽部でした」

「そうだったのか。きっと、礼儀をきちんと教えてくれる、素敵な先輩がいたのだね。もしくは親御さんの躾かな? 綺麗な角度のお辞儀だったよ。でもそう緊張せず、リラックスしていると良い。僕に気を遣う必要はないからね」

「ありがとうございます。でも、そういうわけには……」

 気を遣わないなんてこと、到底無理なんですけれども。だって貴方様は先輩ですし、三年生ですし、あの倉科将鷹ですし!

 微苦笑を浮かべながらやんわり断ると、彼は唇をニッと吊り上げて、肩を上下に揺らした。

「君は、甘えることに慣れていないのだね。それとも、僕のことが怖いのかな? 大丈夫だよ。僕は彼女と違って、体力はからきしなのだから。おそらく、君にも敵わないだろう」

「はあ……」

 彼女とは、きっとあの人のことだと、すぐにわかった。彼と同じく有名な、もう一人の先輩。

 確かに、この人は年上で男の人だけれど、こうして二人きりでいても、体力面では心配するようなことは何もない。

 それよりも、そんなことと一蹴してしまえるほどに、些末なことだと思えてしまえるほどに、この人に対しては、もっと気がかりなことがある。

 彼、倉科将鷹の怖いところは、別にあるのだから。

 しかし、実際に本人の前でそんなことを言えるわけもなく、口下手な私は何と返せば良いかわからず、曖昧な相槌を打つ。

 それでも、彼は気分を害するわけでもなく、笑みを湛えた唇で言葉を継いだ。

「今この場には、僕と君しかいないのだから。誰も咎める者のいないうちに気を抜いておかないと、倒れてしまうよ。緊張は適度であるべきだ。隠し味くらいがちょうど良い」

「は、はい……ありがとう、ございます」

 この人、私が昨日熱を出したことを知っているのだろうか。

 そんなわけはないのだが、そう思わずにはいられない言葉だった。

「さあ、席はたくさんあるのだから。そう立っていないで、遠慮なく座ってはどうだろうか」

「そうします」

 倉科先輩の言葉に甘えて、私は再び席に着く。

 と、あろうことか、彼は私の目の前の席に荷物ごと移動し、座りだしたのだ。

 思わず、目を見開いてしまう。

「――っ!」

「皆、遅いね」

「そ、そうですね……あはは……」

 びくりと肩が跳ねたことには、気付かれなかっただろうか。

 それにしても、どうして荷物を移動してまで、わざわざ近寄ってきたのだろうか。窓側の席に座っていたのだから、そのままあの席にいていただいていたら、何も問題なかったのだけど?

 二人しかいないからって、無理に相手していただく必要はないですよ? 私のことは放っておいてもらって構わないですよ?

 頭の中で、様々な言葉が飛び交う。しかし、どれもが喉元までは辿り着けなかった。

 とりあえず、今ここで席を変えるのはおかしい。私にそんな勇気はない。誤魔化すだけの頭もない。であれば、このまま大人しくしている方が賢明だろう。

 とにかく、印象を悪くすることだけは、なんとしても避けなければ。人は良いことよりも、嫌な記憶の方が残りやすいと言うし。

 それにしても、本当に遅いな。他の人はまだ来ないのだろうか。

 私の目が泳ぎすぎて、気分が悪くなってきたじゃないか。まったく、どうしてくれるんだ。

「ハトちゃんは、どうして美化委員を選んだのかな?」

「はっ――ハトちゃん、ですか?」

 声が裏返るとはこういうことを言うのかと、生まれて初めて体験した。

 そんな私の驚きなど、どこ吹く風。先輩は変わらぬ笑みで「うん」と頷いた。

「白瀬小鳩ちゃんでしょ? じゃあ、ハトちゃんだ」

「は、はあ……」

 なんてこった。先輩にニックネームをつけられてしまった。どうやら、拒否権はないらしい。

 どうしよう……これではまるで、すごく仲が良いみたいじゃないか。

「それで?」

「え?」

「美化委員を選んだということは、掃除が好きなのかな?」

「あ……」

 呼び名にばかり意識が向いて、すっかり脳内を素通りしていた質問。

 しかし、これこそこの人には聞かれたくなかった質問じゃないか。

 だってこの人、美化委員に三年連続で立候補した人だよ。

 もう一人の、例の彼女と争うくらい、美化委員になりたがった人だよ。

 ましてや、噂では今の美化委員の形態を作り上げた張本人らしいし。

 下手なことを言って、怒らせたりなんてしたら、どうなるかわからないのだから。

 ここは、無難に頷いておくべきか……。

「あっれ……まだ始まってないの? というより、揃ってもないのか。何だ、つまんない」

「っ――!」

 ガチャリと扉が開く音がして振り返ると、そこには一人の女生徒が立っていた。

 艶やかなロングの黒髪ストレートヘアーを、高く一つに束ねたポニーテールが特徴的で、涼やかな目元が凜としている。

 スラリとしたモデル体型のとても美しい人で、姿勢良く堂々と学校中を闊歩する姿が格好良い。

 学業では、倉科先輩を今にも抜かんとする勢いで接戦を繰り広げる学園のナンバーツーは、しかし、彼と違って運動もできる、文武両道な天才だ。

 おまけに、理事長の娘。

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