第46話
居城のような岩場から青白い光が漏れ出る。
まるで船着場の船舶信号のように幾つか点滅を繰り返すと、静かにその瞳を閉じた。
少女に手を引かれ、逃げ込んだ先は彼女の父である大鮫のロッドの住処であった。
その穴に着くや否や、彼女は糸が切れたように水底に背を向けて浮かび上がった。
その認識を脳が理解する前に、大きなヒレが俺たちを部屋に運んだのだ。
「自分が何者であるか」
絵画のように眠る少女の傍らで、彼は人間のようにその頬を撫でた。
「あては、考えたこたぁあるか?」
「......」
質問の意図が読めない。
「わてはある。まさしく、かの大嵐に巻き込まれ、陸上に打ち上げられたとき。そのとき初めて、わては水の中でしかぁ生きられんもんやと知った」
「この子は何だ? 」
「はて、わてが答えたところでなぁ」
「言え!」
やはり感情の抑制が効かない。
思い通りにいかないと、脳ミソが煮え滾る。
「この子に御方が取り憑いたか、御方がこのような御姿になぁたのか、それぁ知ってどうする? なんにせぇ、ティラはティラじゃて」
「御方?」
この口ぶり。
そのような呼び方をするのは大精霊レベルの身分しか考えられない。
だとすれば、彼女は─
「水の大精霊は、男だぞ......?」
違う。
そもそも、実体のないはずの存在を肉体のある生物の価値観で当てはめること自体がナンセンスなんだ。そうだ、彼ら彼女らは生まれ持った性別に囚われない。男にも、女にも、或いはその両方の性質を持ち合わせることだって可能だ。
「じゃあ、なんだ? 水の大精霊が二体も存在するってか?どうして?そんなことがありえるのかよ!?」
「わてには分からん。ただ、この子が御方でもあるこたぁに間違いはない」
思考が理解を拒絶する。
呆然と汗だけが背中を伝う。
「そうか」
だから、死ぬんだ
もはや過程など重要ではない。
分体という概念がこの世界にもあった。
およそ、それだけのこと。
そして、彼女は彼女自身に殺される。
どちらが本体か、都合のいい物語しか知らない俺に知る由もない。
「この子が襲われたというこたぁ、もうそういうことだて」
ロッドもまた、この騒動の意味を理解しているようだった。
「どうすんだよ......」
「この子の親として、そして鏡緑域のぬしとして、その役目を果たす」
しゃがれた声はやけにまっすぐ響いた。
「今のあての顔を見て、なんとなく察した。ティラとあては、出会うべくして出会うたのだな」
やめろ
「頼む、人間よ」
これ以上、俺に
「この子、ティラのことを─「背負わせるな!」
目の上に揺れる前髪はくしゃくしゃで生気がない。
「俺じゃ、駄目なんだ」
救えない
救えるはずがない
視界が歪む。
動悸が膝を折る。
不安定な呼吸が喉を締め付け、声にならない苦悶を零す。
「......無理には言わん。せやが、どちらにせぇ、早めにここから離れりゃがえぇ。もうじき、
それだけ言い残すと、ロッドはふよふよと岩場から泳ぎ去った。
──────────
静かだ。
いつもと変わらない。
水の篭もる音だけが脳内を撫で回す。
だが、それでも一秒、二秒と時を重ねる毎に焦燥感で心臓ががなり立て、目頭を焦がしていく。
どうすればいい? どうしようもない
幾度も反復する自問自答。
浮かび上がる自我は直ぐに水と溶けて消えて、空っぽな器だけが残されている。
「スゥー、スゥー」
遠目から見たら死体のように見える少女。
しかし、耳を傾ければ微かに穏やかな寝息が聞こえてくる。
悲哀も絶望も知らぬ純粋な寝顔。
俺にもっと力があれば、魔法が使えれば、この子を救えたのだろうか。
「ちくしょう......」
ゼルフも、ハイタでさえも、苦痛に顔を歪め、明けぬ闇に涙を流すこともなく、すぐに笑えるようになっていたはずだ。彼女たちを救うことができたんだ。俺がもっと
彼のように強ければ────
今の俺では君にしてあげられることは何もない。それなのに、君は俺のために少女の小さな身体では持て余してしまう程の強大な力、あのたった一瞬で意識を失ってしまう程のリスクを孕んでいるそれを惜しげも無く使って、何も言わず、ここまで泳いできてくれた。
「ありがとう、すまないティラ」
自身の拳をぎゅっと握りしめて、言葉を漏らす。
ただただ、感謝の念が尽きない。
それと同時に、自身への情けなさと羞恥が脳内を掻き乱して、生温い涙が目尻から溢れる。
「......」
海底の光に照らされ、病的なほど青白くなった肌はアクアマリンすらも路傍の石と思わせ、ひとたび触れれば泡と消えてしまいそうなほど儚い。
あぁ、どうか
どうかどうかどうか
この子は救われますように。
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