第44話

 世界の底に漂う薄碧の波はいつまでも見ていられる。

 此処には朝も夜もない。

 脳が休息を求めれば眠り、そうでなければ眼を開けるだけ。


「いつまでそうしているつもりだ?」


 彼の尖った口先が鼻へとぶつかりそうになる。


「お嬢と出かけてから、お前は何も話そうとしなくなった。一体何があったのだ?何が気に入らない?」


 傍から見れば拗ねた子ども。

 だが、中身はそんな可愛いものじゃない。


「まぁいい。ぬしが何も言わぬなら、私とて文句は言わぬ。気の済むまでそうしているがよい」


 影のかかった視界は晴れて、再び流麗な映像が映る。

 この空虚な瞬間が俺の心を満たす。このまま溶けてしまいたい。その存在を消し去って、何もかも始めからなかったかのように。


「てーちゃ!」


 溌剌な潮流が飛ぶように訪れる。


「何してる?」


 何も答えずにいると、ティラは横に寝転がってきた。


「きれー」


 だが、その麗しさも君の髪には遠く及ばない。

 ひとたび棚引けば、この映像もたちまち質の悪いフィルムのように思えてしまう。


「ぐにー」


 悪戯げに微笑みながら、頬を上下左右にこねくり回してくる。それでも、力加減は解っているようで痛みはない。


「元気ないねぇ」


 彼女は顎に手を当てて、背中を丸める。

 そうして二分ほど考え込んだ後、再び寝転がってしまった。


「そんな日もあるよねぇ」


 水の籠る音だけが、耳鳴りを宥めるように鼓膜を撫でる。

 一時間、二時間、次第に数えることすら億劫になり、やがて訪れた羊が意識を優しく包み込んだ。


「おやすみ」


 マホガニーよりも滑らかな細木が後頭部に潜り込む。


 深く


 沈む


 全てを忘れてしまいそうになるほど


 暖かくて


 息が止まる


 それがたまらなく心地よくて


 静寂の渦に身を委ねた



 ────────

 ───

 ──


 原始、無何有むかうの世界では姿形の差異はなく、むしろその身に宿す資質によって集団を成し、また世代を繋いでいった。

 しかし、あるとき突然天地の境目が消え、世界は混沌と化した。

 再び別たれる頃、天に残った者は以前と変わらなかったが、地に残された者は己が資質を見失ってしまった。


 天に坐す賢しい者は、地上の混沌を鎮めるため、己が資質、そしてそれに近いし者たちを集め、視覚的に区別しやすくなるように肉体を与えた。

 あるいは鳥のような、あるいは魚のような、あるいは虫、鹿、虎.......。

 だが、その者達を持ってしても見極められぬ者たちがいた。


 色でたとえるならば、白。

 彼らは生まれ持った資質を有していない。

 ただ、産まれたての時に限り、ほんの少ししずくを垂らすようにそれを分け与えると、たちまち自身の資質へと変換する。

 言うなれば、純白のキャンバス。

 何者でもない彼らは何者にもなれる。

 だが、機会を失えば彼らはほぼ無に等しい存在となる。


 そうした有と無の不安定な狭間にいることから『二間にげん』、転じて『』と呼ばれるようになった。


 その無限の可能性を持つ存在に、賢しき者が陶酔するまで、そう時間は要さなかった。

 彼女は彼らに自身の姿と似た肉体を与え、その盛衰を時には見守り、時には手を加えた。


 そして、現在いまは......


「誰のものでもなかったこの世界は、いつしか誰がための世界になってしまった。鮮やかだった景色は、しろくろだけになって、誰もが自身をしろだと信じている」


 顔も声も霞んで、はっきりとしない。


「その真実を知れば知るほど、白痴である方が幸せなのだろうと思わざるを得ない。事実、私は今の生活がかけがえのないものだと感じるようになってしまった」


 君は、誰だ?


「そろそろ、時間だ。きっと、これが最初で、


 ─

 ────

 ───────


「ッ!」


 眠る前と変わらない。

 淡い碧の光が妖しげに揺らめいて、鬱屈するような水流が全身をそよぐ。


「君、なのか?」


 隣で静かに寝息を立てる無垢な少女。

 その無邪気な寝顔から漏れ出る言葉にもならない寝声からは、先程の面影など一切感じられない。

 しかし、なぜか脳内には確信にも似た感覚が張り付いている。


 君は単なる不幸の少女ではないのか?

 これから起きるあの事件も、


 それは絶望の上塗りにすぎない。

 この白昼夢のような生活も、所詮は泡沫。

 逃れることはできない。

 宿命の真綿は未だに喉元をそっと包み込んでおり、じわりじわりと己の首を締め上げているのだ。


「はぁっ、はぁっ」


 そう考えると、いてもたってもいられなかった。

 俺は彼女の身体を抱え、この場からできる限り遠くへ、遠くへと離れた。

 この無尽蔵に思える体力が続く限り......。




「ぬしよ、本当によろしいのでしょうか?必要とあらばこのミツ、即刻二人を連れ戻しますが」


「わかりゃん。ただ、我々わてらがあの二人のジャマしちゃいかんよ」


「あの人間は一体何なのです?何も語らぬどころか、何もせず寝そべっていてばかり。何故、問い詰めぬのですか? 」


「それぁ、必要ねぇからやぁ。あの男子おのごということに意味がある。が、どういう訳か此処へ行き着いた」


「まさか、!? もし、そうだとするならば!?」


「生かしちょるのはわてじゃない。それでも、生きちょるのならじゃて」

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