第42話

 満足する死とはなんだ?

 誰かが言ったのか、己が思ったのかは分からない。

 ただ、惜しいとも悔しいとも思わぬ日々の中で、このまま消えていくように死んでしまうのではないかと杞憂に昏れる。


「俺だ」


 間違いなく、それは己だ。

 夢も希望もなく、ただ欲望と本能のままに生きて、可能性という単語を黒塗りにして、垢まみれのコントローラーに手を伸ばす。

 電子世界に広がる絶対的英雄伝に心を躍らせて、勧善懲悪の甘い蜜を啜る。


「ディード......」


 君を痛めつけたのは俺だ。

 君を嘲笑ったのは俺だ。


 君を


 殺したのは


 俺だ


 君の優しさに溺れて、許された気になっていた。

 君のためじゃない。

 自分が可愛いから。

 理解したふりをして、認めてもらおうと思った。


で禊を済ませたつもりか?」


 結局は、彼の優しさによって自分の都合のいい結果に帰結しただけ。

 根本的に己の汚い欲望が否定された訳ではない。


 


 君の夢はなんだ?

 俺に汚される前に君が望んだ世界は?


「英雄じゃない」


 そうだ。

 それは、空っぽの俺が都合のいいアイデンティティを確立するために描いた無味無臭の絵空事。


「母、フィアータ、サマーナ」


 君は誰かを愛していた。

 でも、それが報われることはなかった。


「どうして」


 どうしてこんなにも世界は残酷なのだ。

 彼ほど純心で他者を思いやる者などいないというのに。

 あぁ、これもまた己の身勝手な言い分に過ぎない。

 が存在するだけで、また君の像が捻じ曲がってしまう。


「君はただ、誰かと笑い合いたいだけだというのに」


 どうすればよかった。

 光の中で見た君の笑顔は、何とも満足げであったのに、本当にこれでよかったのかという疑念が肺を食い破る。


 ディード・オルネーソは死んだ。

 光の大精霊ニルの光線によって、塵一つすら残らなかった。


 その事実が脳裏を掠める度に、辛苦い汁が胃の奥からせり上る。


「ふざけるなよ」


 声が反響して、心臓と脳で増幅する。


「こんな結末で、終わらせてたまるか」


 これが己のエゴだと理解しても尚、湧き出る欲望を抑えきれない。


 不純だ。


 きもちわるい。


 下唇を噛みながら、いつものように赤色が擦り切れたコントローラーのボタンを親指で潰した。




 ───────────


 ──────


 ───


 目に光のない不気味な魚。

 轟々と耳を突く流動音。

 口端から漏れ出る空気の塊。


「寒い」


 辛うじて動く四肢を転がす。


「生きてる」


 思考を反芻するように零れ落ちた言葉は真昼に流れるラジオよりも軽い。


「痛い」


 涙が出る。

 もう動けない。

 水底の砂を見つめながら、震えた吐息を漏らす。


「起きたか、人間」


 ハスキーな声が右側から聞こえる。

 視線だけを向けると、そこには先程の不気味な魚が居た。


「ちょうどいい。ぬしが来られた」


「ぬし?」


 朧気な意識をつなぎ止めるように耳に入った言葉を繰り返す。

 ここはどこだ?

 お前は誰だ?

 そんな疑問すら、泡となり弾けていく。


「いんや〜、まさか人間が落っちんでくるとは思わなんだぁ。何年振りかねぇ、あの風船魚みたいな顔した男以来だあ」


「鮫?」


 ふにゃふにゃと酔っ払っているような声。

 目を瞑れば、赤っ鼻のオッサンが脳内に浮かぶが視界にいるのはメガロドンを思わせるような巨大な鮫だ。


「まぁ、儂のことはロッドでも呼べぁ。んじゃ、ミツ、此奴を空穴に運んじゃれ」


「御意」


 ミツと呼ばれる魚の背に乗せられて、穴蔵の中に運ばれた。


「かなりの怪我やきゃ、治るまで儂らが世話したる。何かあったら遠慮なく、物言えゃ」


 ぬしはそう言い残すと、ふよふよと穴から出ていった。


「まさか、魔力が全く無くなるほどまでに弱っていたとはな。運がいいのか悪いのか、どちらにせよ今生きているのはぬしの温情のおかげだ。それをゆめゆめ忘れるな」


 大きな貝の中に、ミツが丁寧に降ろしてくれる。

 中身は綿のように柔らかくて、心地が良い。


「閉じてもいいが食べるなよ、ロパ」


 おそらく、この大貝の名前だろう。

 まさか、生きている者の上に載せられているのか。


「さて、人間よ。話せるのであれば、訊こう。なぜ、貴殿がこのような場所に、これほどの傷を負って沈んできたのか。その事の一部始終をな」


「質問をしたいのは、こちらの方だ」


 パクパクと口を動かすと、自然と音が彼に伝わる。

 そう、この不自然さ。

 魔力のない俺が、行える芸当じゃない。


「なぜ、魔力のない俺が、この水底で生きていられるんだ?」


「その質問には既に答えたはずだ。、それによりお前は生かされている」


 ミツは尾を揺らしながら、穴の中を旋回する。


「この深界のなかで、唯一人間に友好的な場所がぬしの率いるこの鏡緑域グリンリル。かつて、ぬしが浅瀬に打ち上げられたとき、とある人間の助けを経てこの場所に辿り着いたことから、この場所は深界と人間の唯一の接点となった」


 それは確か、メンドーン家との間にあった出来事か。


 釣りに出かけた公爵の先祖が偶然、打ち上げられた大きな鮫を見つけた。そして、それを哀れに思った彼はその鮫を抱えてできる限り、深いところまで潜った。しかし、海の住人たちは彼がその鮫を襲っていると勘違いをし、袋叩きにしてしまう。水中にいて、なおかつ大きな鮫を抱えている彼はもちろん抵抗できない。

 それでも、彼は鮫を送りだすまではその腕を離さなかった。血みどろの腕が力なく開かれたとき、その鮫は目を覚ます。

 鮫は事の次第を一瞬で理解し、彼を襲う魚を猛るように追い払う。そして、瀕死の彼を背負い、水の底にいる長に懇願した。

「どうか、この男を救ってほしい」

 話を聞いた長は、彼の行動に心を打たれ、その力を分け与える。それは、傷を癒す力、水の中で生きる力、そして────


「おい、生きてるか?」


 白く濁った瞳が眼前に迫る。


「うぉ」


「貴殿から訊いてきたというのに、上の空ではないか。やはりまだ意識がはっきりとしていないな。もう少し休め。話の続きはまた後にしよう」


 ミツは尾を翻して、穴から出ていった。


「......バクン!」


 唐突に貝の殻が勢いよく閉じる。

 一瞬、食われてしまったと錯覚したが、身体にはなんの異変もないので、ひとまずは安心だろう。


「.......」


 気怠さと鈍い痛み、水の籠る音。

 真っ暗な貝の中で、再び眠りに落ちるのにあまり時間は要さなかった。

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