不思議な彼女 その十二




「お、おい。シィ」


「は?」


 腫れ物に触れるようなジェフの呼び掛けに、俺はぞんざいに応える。すると彼は、咳払いをして喉の調子を整えた。


「ド、ドンマイケル」


 日本人がよく使う『Don't mind』の略と『Michael Jackson』を混ぜた駄洒落だじゃれが、俺の虚を突いた。


「っは、ははっ。何だ、いきなり。お前が言うなら『Never mind』の方だろう」


 ジェフの容姿との齟齬そごに近い感覚に、脇腹をくすぐられた気分になった。不思議なもので、友希に置き去りにされかたくなになっていた思考がほどけていく思いがした。脳や筋肉の芯に、血流が行き渡る感覚さえある。


 静かに鼻から息を吸い、音を立てずくちからそれを吐き出す。細波さざなみをに揺れていた思考が、鏡面を取り戻すイメージを浮かべる。


「おぉ、そうかもな。でも、何で日本人って『ドンマイ』って言うんだろうな。他にも和製英語ってのが多すぎる」


「さあな。今度、に聞いておくよ」


「調子に乗ってんね~。キィに言い付けてやろっかな」


「どうぞ? ご自由に」


 軽口を叩いていると、いつもの調子が戻って来た。もう、大丈夫だ。


 そうだった。友希ゆうきの作品にも書かれていた。本当に大切な人間というのは、心身共に打ちのめされた時、金銭や物品を与えてくれる相手ではない。安全な場所と微笑みを与えてくれる相手だと。


 それと、万人受けする綺麗事を言いながら近付く人間は信用しない方が良い。一層の事、誰も実現できない正論を吐く人間の方がマシだとも書かれていたっけ。


 この場合、ジェフの“オヤジギャグ”も、大切な相手としての条件を満たしてくれているのだろうな。


 いつまでも、自分自身の顔色で動揺している場合じゃなかった。友希に呆れられてしまう。


 ジェフとのやり取りが一息ついた頃には、メアリーも帰り支度を整えていた。


「それでは、一条様の所までご案内いたします」


 絶妙なタイミングで、店員が移動をうながしてくれた。


「あ、あの。差し出がましいのですが、一つよろしいのでしょうか」


「何でしょう」


 移動の途中、店員が話し掛けてきた。気分は、まな板の鯉だった。座敷での醜態を晒してしまっては自棄やけになってしまう。


「奥様、右足の方がお悪いのでは? どうぞご自愛ください」


「まさか、足を引きずっていたんですか」


「そこまでではありません。靴の音が、わずかに左右で違いがありましたので。実は昔、私も右足を壊しているので、つい同じような方を見かけると気になってしまうんです」


 あぁ、やっと違和感の全てが解けた。


「あなたの方は、大丈夫なのですか? 妻は仕事内容の負荷や、気圧や湿度で古傷が痛むと訴えます」


「やはり、気圧や湿度の変化は大敵ですね」


 店員と意見交換しながら、座敷での友希の違和感を並べてみた。


 右足首を壊しているのに、正座をしていた事。やたらジェフに話し掛けていた事。


 俺が弁当を指定した理由は、ジェフとメアリーに配慮したからだ。弁当箱なら、器を持って食べなくても無作法には映らない。でも、友希は逆にジェフとメアリーの食べ方に合わせていた。


 プライベートな情報、つまり、簡単には話さなかった不思議な感覚の件を初対面の相手に話した事で、俺への不信感をあおっている。それに、ジェフとメアリーの誕生日まで言い当てるなんて、洋の東西を問わず敵意を向けられかねない。


 習慣による安堵と、非科学的な不安で初対面の相手に警戒心を与えている。


 しかもあの感覚は、誰かに話したところで理解されないから、むやみに明かさないと俺に言ってくれたていた。なので、友希自身への不信感を買おうとしていたはずだ。


 要は、『この秘密はあなただけに話す』と言った内容を、実は方々に言いふらしていた事を知った時の背信に繋がる感情を引き出したかったのだろう。


 止めは、妻を語り会計を済ませ俺の面目を潰す。その上、挨拶もなく言伝ことづてだけで先に帰ってしまう非常識な言動。

 

 これはもう明白だ。この不自然さは、ジェフとメアリーを含め、俺に嫌われるための演技だと断定できる。


「ごちそうさまでした。最高にクールな店でした」


「ありがとうございます」


 ジェフが店員に挨拶をしている。その後ろで、メアリーが日本人のようにお辞儀をしている風景が、夏に向かう準備を始めた空の下に現れた。


 世界有数の先進国の首都の一角は、他の国と同じように様々な人種と異文化を抱えている。俺もまた、異邦人の一人なのだろうかと複雑な思いがぎる。


 同時に、深く深く想う。友希がどんなに諦めさせようとしても、俺の愛は、想いは尽きる事はないのだと。友希の違和感満載の言動は、かえって逆に俺の決意を固めてしまった。


 この逆効果を知った友希は、一体どんな態度を取るのだろうか。今から、楽しみで仕方がなくなって来た。


 今日の俺よりも、赤面しながら照れる友希への言葉は、どんなものが良いだろう。友希は、言葉と音に弱い。毎日、いつでも俺の言葉と音で包んであげたい。それくらいの、ささやかな意地悪くらい楽しんでも許して欲しいんだ。


『Je suie heureux avec toi.donc、embrasse-moi. 《君と居ると幸せ。だから、キスして》』


 俺の奥様になってくれた友希に、『行ってきます』と『ただいま』という挨拶だけではなくて、『いってらっしゃい』と『おかえりなさい』と、俺に言ってくれる日を改めて願わずにはいられなかった。




        【 五月・悠士編 完 】





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