不思議な彼女 その八




『へ~、そうやって窪みディンプルを作っていたのか。それにしても、って器用だね。相手の首にタイを結ぶのって難しくない?』


 友希ゆうきを横から見ながら、ジェフの言葉を反芻はんすうしてしまう。そうなんだ、俺の首に器用に窪みディンプル付きのタイを結べるのは、俺がではないと考えるのが普通だ。


 友希の年令を考えたら、今まで何人かの男と付き合うのは自然の流れじゃないか。俺は何を勘違いしていたんだろう。五〇年以上、誰とも付き合わずナイトライフ大人の接触を重ねないなんて、あり得ないよな。


 俺が勝手に描いていた、友希の幻想を突き付けられた気がした。同時に、今まで友希と重ねた時間が、現実と乖離かいりしそうな感覚に襲われそうになる。妙な恐怖心を煽られ、すがるように友希を見てしまう。


 そんな友希は俺の気持ちも知らずに、枇杷のゼリーを正面に、背筋も綺麗に正座を崩さない姿のまま。左手を腿の上に置いて、右手で持つ匙でゼリーを掬っている。

 朝、俺が触れた唇に運ばれる適量のゼリーは、危なげもなく品も良く収められた。


 友希が俺と出掛ける時、必ず身に付けてくれるのは俺が贈った時計。今だって、俺が贈った青いスーツに身を包んでくれていて、薄化粧をしてくれて。


 でも、リップの色が普段と違う。


 見付けてしまった違和感は視野を拡張させ、認知すら強制的に焦点を操作する。あんなに興味深かった枇杷のゼリーだったのに、匙を入れる気にもならない。俺、こんなに繊細だったか? 


 二十六の言語で通訳、報告書、文書を作成出来る俺だが、今の友希に何を話し掛けて良いのか言葉すら浮かんで来ない。


 今の友希の姿に、違和感ばかりが付きまとい始めた、そんな時だった。


 ぼんやりと友希を見ていた俺の視界で変化が起きる。友希が、正面に視線を上げたと思ったら、俺に顔を向けた。

 間もなく友希が俺と目を合わせた途端、肩をすくめて出入口方向に上半身を向けて体をねじってしまった。その、すくめた肩が小刻みに震えている。


「何て顔してるの。男前が台無しだ」


 猫舌の友希でも飲み頃になっていたらしい焙じ茶で、くちと呼吸を整えた友希が俺に半身を向けて左手に拳を作って見せた。


「ほら、表情が崩れそうになったら、ヘソの下に力を入れて奥歯を食いしばるの」


 その拳を、俺の下腹部に触れそうな位置まで持って来る。友希の仕草と言葉に、目眩めまいがしそうになっている事を自覚した。情けない顔をする俺に掛けてくれた、と同じ仕草と言葉を思い出す。その符合にジェフに視線を向けると、ジェフも友希を凝視していた。


 もっとも、ジェフの受けていた仕草や言葉は、もっと豪快に突き付けられていたけれど。


「それでも保てないのなら目を閉じるの。状況や相手が変化しないのならば、視界を遮って集中して。感情ではなく、理性を優先すると脳へ指令を送る。感情と理性の違いを考えているだけで、視点が変わるものよ」


 俺の不可解な視線に何かを感じ取ったらしいが、友希は視線の意味を問わない。代わりに友希は俺に向けた拳を元へ戻した。記憶を辿っているのか、話の続きに集中させるためか、切れ長の瞳をゆっくりまたたかせる。


「そう、状況や相手は簡単には変わらない。だから、こちらが変わるか譲歩するしかない。ただ、これは相手を鵜呑みするわけではない。感情は理性でコントロール出来る。冷静に機を窺い、ぎょするだけ。とりあえず、大風呂敷は広げられないし万能でも無いけれど、感情で全てが解決しないのは、世界が証明している。今だってそうでしょう? 悠士くん」


 一気に言い終えた友希の切れ長の瞳が、俺の目を再び真っ直ぐ見据える。確かに、友希の発言には一理ある。納得できる部分も多々ある。それでも、オヤジと同じ言葉と仕草が気になって仕方がなかった。


 以前から不思議だった。何故、友希はオヤジと重なってしまう部分が多いんだ? 性別、年令、職業、口調も人種も違うのに。


「ごめんなさい、変な事を言ってしまったみたいね。忘れて頂戴な」


 俺の鈍い反応と一連いちれんの態度と、奇妙な空気が漂ってしまった事に、言い出した友希が早々に責任を取って幕を引いた。非がなくても場を収めるため、事を進めるために自ら泥や責務を被るのは実に日本人らしい。

 だが、現場、議論の内容、相手が外国人だと妥当な対応ではない。謝罪した前例につけ込まれて、利用されて搾取されるだけだ。


 とは言っても、さとい友希の事だ。相手が俺だから、謝っているんだろうけれど。


 そんな事を考えながら俺は友希の言動に注視しているが、友希は俺を見ようともせず、再び枇杷のゼリーに匙を入れた。もう、友希は切り換えてしまったようだ。


 このままでは駄目すぎる。黙っているだけでは、友希に対してあまりにも不誠実だ。かすれそうな喉に、言葉を込めるため、咳払せきばらいで勢いを付けるつもりだった。


「おぉん? ちょと電話に出て良い?」


「はい、どうぞ」


 間が悪いな。テーブルに置いているジェフのフォンスマートなフォンに着信があったようだ。それに友希が律義に返事をしたので、咳払いの機会すら奪われてしまった。


 友希はジェフの電話にすら興味を示さずゼリー攻略に戻り、オヤジを知らないメアリーは俺達のやり取りの意味も、この奇妙な空気に置き去られて居心地の悪さにあおい視線を動かしている。


Hi,it's Jeffreyもしもし、ジェフリーです


 着信に応じたジェフの眉が、最大の可動範囲の位置へ移動した。普通なら顔面のバランスが壊れるものだが、映画俳優並みのパーツを持っているせいで、俺達に不満と警告を表情で伝える演技の一場面にも見えた。


 嫌な予感しかしない俺は、諦めてゼリーに匙を入れる。ゼリーを迎え入れるために開いたくちから、先に小さな溜め息をいてしまった俺は、情けなさを自覚せずには居られなかった。



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