ラムネ味の朝 その五
息苦しい。身体も圧迫されて動けないし、口呼吸が出来ずに溺れている感覚で不安だ。私とは違う吐息が、何故か私の口内で響いている。そこで絡み付く、私とは異なる体温を持つ柔らかなかたまり。
しかも、爽やかな甘みと、心地
何、この最高のおめざ。
自慢ではないが入院中、寝たままでは血圧が測れない程低いから、上半身を起こして欲しいと言われた経験がある。
とは言え、さすがに悠士さんの
気付けば、視界は近すぎる悠士さんのご面相。声を出そうにも口が塞がれているので、声にならない吐息が漏れるのみ。手を使って停止を求めようにも、右手は組み敷かれている。
左手は悠士さんの右半身の隙間から伸びているが、これまた可動域が制限されシーツの上で小さな音を立てるだけ。
私の気配を察してくれた悠士さんが、少し距離を置いてくれたおかげで、間接照明の薄暗さに慣れた視覚に絶景が広がる。
宇宙で一番の男前が、微笑みを花と変換して咲き誇っているじゃないか。
「起きた? おはよう。友希さん」
悪びれる様子もなく、悠士さんは極上の微笑みを添えて挨拶を降らせる。
「悠士くん、おはよう。その前に、これは駄目じゃないか。断りもなく襲い掛かるなんて良くない」
「お伺いは立てた。キスしても良い? って聞いたら、友希さんは『うん』って返事をしたから」
「眠っている相手に話し掛けている時点で、信憑性なんてない。それに、これはラムネなの? 私が窒息したり、悠士くんの舌を異物と判断して噛んだりしたら危ないでしょう?」
言葉ははっきり出るが、身体は付いて来ない。この手の仕事と、何度も手術を経験すると自律神経をやられてしまい、気圧症との付き合いも長くなったものだ。
「でも、俺が二粒目のラムネ欲しい? って聞いたら、友希さんは『もっと欲しい』って応えたよ」
「い、言ってない」
「言いました」
言った、言わないの不毛な会話が待ち受ける気配の中、思考も運動機能も再度眠りに落ちそうだ。今も悠士さんは話し掛けているけれど、その声が遠くなる。
断りもない無許可のkiss、か。
数年前、海外の夢の国のアトラクションで『白雪姫の同意を得たkissではない』と、繊細な感覚を持つ方々がクレームを入れたという記事を思い出した。
じゃあ、どう起こせば現代風になるのか? 白雪姫の身体に触れないよう距離を置き、王子は手にしたエアホーンで白雪姫を起こす。なんて風刺画もあったな。
「友希さん、起きて。変な事を口走っているから」
「んっ? 口に出てた?」
「早口で聞き取れなかったけれど、白雪姫が何とか、って」
「そうなの。それはそれとして、いつの間にベッドに入ったの? 悠士くんを膝枕していたはずなのに」
現在、私達は寝室のセミダブルのベッドの上。悠士さんは、いつもの裸族スタイル。私は寝る用の
「膝の上で起きたら、友希さんは寝ていたよ。ベッドに運んだのは、二時過ぎくらいだったかな」
「いやいや、色々ありがとう。重かったでしょう? どこか痛めなかった?」
「悪いけれど、そんなに情けない奴じゃないよ」
悠士さんの頭を撫で回して寝てしまうとは、私の方が情けない。それにしても、顔の上で寝ていたとなると、危惧される事がある。
「今度は私が悠士くんの顔に、
「それは、なかった」
悠士さんは、ふて腐れたように視線を外す。当時を思い出したんだろうな。バツが悪そうだ。
「今、何時?」
「えっと、五時三十六分」
ここを出るのは九時だ。怠惰だと思われても構わない。睡眠を最優先する。
「寝る。おやすみ」
「待って、友希さんの耳に入れておきたい事があるから話を聞いて欲しい」
「うん、いいよ」
こんな状態で、どこまで覚えていられるか自信はないけれど、返事だけはしておく。
そもそも、何故このタイミング? 構って欲しいとかなの?
「来月の第三日曜日。同僚二人と食事なんて、どうかな。彼らは恋人同士で、いつも
言いながら、悠士さんは大きな手で私の髪に触れ、流れで耳の
「相手の都合で遅めの昼食になるんだけど、予定を入れてくれると嬉しいな」
その時間は、図書館で例の趣味の調べ物の続きをするか、吉田さんの
「悠士くん? 話の途中なのに、ちょっとごめん」
返事をする前に、気になってしまった。悠士さんのキレイな形の唇の
あんなに小さな粒でも、ラムネの味がする事に感心していると、舐めた方の手を悠士さんに掴まれた。
「ねぇ、友希さんって自覚してないの?」
悠士さんは、吐息混じりで体勢を変える。間もなく、低く甘い声が私の左耳に触れた。触れたのは言葉や、悠士さんの体温が込められた見えないものだけではなく、量が多い癖のある黒髪が私の肌の上で踊る。
諸々の要因は、喉の奥から押し出される声となって私を
「脳の仕組みや動物行動学に詳しいのに、目の前の男がどれだけ興奮しているのか分からない?」
普段は冷静で、滅多に大笑いもしない悠士さんの声が余裕をなくしているような響きを感じる。そう思った頃には、現実に突き落とされた。
浸りしは 桜色たる 奈落かな
炭酸水の気泡のように、現れては消える愉楽が連続する。私が起こす反応を新たに探り求める吐息や動きは、悠士さんによって私の領域が侵略されている感覚に陥る。
味わうべきではなかった。味わう事がなければ毅然と引き返せた。この現状に甘んじているのは、私があの夜にレッドラインを突破を許してしまったからだ。
「友希さん、好き。大好き」
私の左耳に囁く言葉と、悠士さんの欲情を隠さない熱を帯びた荒い息遣いにの波に呑み込まれそうになる中。脳の曖昧な部分に、冷水が走るような錯覚によって別口の思考が開く。
大好き? この女性慣れしている男性が『愛している』をここで言わない? これは、
私の経験則、仮説、検証によると、自信と誇りを込め人に語った信念を自身の手によって砕いた時、その人は崩壊を起こす。
信念と自信を失った人間は、一種の精神的な空白地帯が生じる。操作も可能となり、優位性を得る事が可能だ。
ただし、リスクもある。自棄を起こした矛先や事後処理が仕掛けた側に向かう可能性だ。
私は、根拠はないが確信した。悠士さんのレッドラインは『愛している』に違いないと。言わせたのなら、私の
悠士さんは、桜だ。私の願いが叶っても、記憶の中で咲き続ける桜として死ぬまで私を満たしてくれるだろう。
注がれる悠士さんの想いが具現化したような、桜吹雪に覆われて埋もれる別風景に視界が染まる。そんな桜色の
【 四月・友希編 完 】
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