ラムネ味の朝 その三




 例の流行病はやりやまいは、世界に混乱と生と死の分断を招いたけれど、個人的には悪い事ばかりやなかった。

 その一つが、公衆衛生が改めて見直され住宅施工やリノベーションにも影響をもたらしてくれた事。


 軽視されがちだった玄関を広く取り、入ってすぐの場所に洗面台とか。配線を充実させ、電源が必要な空気清浄機などを置く空間とか。


 例に漏れず空気清浄機は、この玄関にも置いてある。しかもここだけではなく、リビングルームや寝室にも設置済みや。私のアレルギー反応対策だと気をつかってくれるのはありがたい。もちろん、重々にお礼を伝えた。


 ありがたいんやけど、国内メーカーの最新型を三台設置て。悠士ゆうしさん、気合い入れすぎやで。


 話を戻すと、要は玄関に除菌作業がしやすいスペースが確保されたおかげで、アパートメントの玄関でも八重咲きの桜をでる余裕が生まれた訳や。これは精神衛生の向上にも一役買ってくれそう。


 丁度、悠士さんの目線に合う八重咲きの桜。気に入ってくれはるやろか。


 反応が割りと待ち遠しかったけれど、本人が帰宅したのは残すところ数分で日にちが切り替わる時間になっていた。タイミングからして、駅を使わず一条さんに送ってもらったんかな?


「ただいま、友希ゆうきさん」


悠士ゆうし、おかえりなさい」


 帰宅の挨拶もそこそこに、悠士は疲れを感じさせない上機嫌な様子で語り掛けてくれた。


「凄いね友希さん、あの桜のオブジェ。画像を何回も収めてしまったよ。同僚に見せて、自慢しても良い?」


「ええ、どうぞ」


 悠士さんは、右手に持っているスマートなフォンを私に見せながら整った笑みを浮かべてはる。まぁ、男前のキレイな笑顔だこと。


 男前 キレイな笑顔 要注意


 感情と表情の処理は出来るようで出来ない。ただ、男女問わず容姿の美しさを武器として認識して磨いるのであれば、状況に合わせて造形する事が可能や。


 キレイなご面相と、腹の内が一致しとるとは限らへん。特に今は、例の『大事な話』も待ち受けてるしな。


 そんな事を考えながら悠士さんを観察していると、口元に軽く握った拳を置いて、一つ咳払いをした。桜の存在によって、緩んでいた表情を引き締めたようにみえるけれど。


 間もなく、悠士さんが仕事鞄アタッシュケースを持ち直した。その影から私に向かって差し出されたのは紙袋。その上部両端を持ち、私は受け取った。


「あら、お高級なチョコレート」


 チョコレート色の紙袋に、シンプルなフランス語が横に並んでいる。これは、表参道にあるチョコレート店舗のモンや。差し入れで何度かいただいた事があるから間違いはない。


 それにしても表参道か。ちょっと面白い記憶を思い出して、息がもれそうになったので手にする感覚へと意識を戻す。


「先月の第二土曜日、何か変わった事なかった?」


「ん~、思い当たる節はないかな」


 相手から視線を外し、やや右方向を見る。私が考え事をする時か、『少し機嫌が悪くなっていますよ』アピールする時の、お決まりの仕草。上辺だけで私の顔色を伺う相手は、そう判断する。


「息をするように人助けをしている友希さんなら、見当もつかないって事か。分かった、遠回しな質問は止める。これは、アパートメントの管理会社経由けいゆで届いた品だよ。送り主は、その日に友希さんが助けた女性」


「律義な方ね。大した事じゃないのに、気を遣ってくださるなんて」


 偶然にも午前中、思い出していたネタやないの。変な集金人か勧誘屋かと思って追い出そうとしてた、気がする。あの時のお嬢さん、凄く嫌がってたし。


「担当者の話によると、侵入者と女性の間を割って入ったんだって? 正直、危ないから止めて欲しかった。女性を助ける方法は他にもあっただろう」


「私も面倒事は御免だし、関わりたくないけれど。身体が先に動くんだよね。もちろん、目にした全てに反応してないけれど」


 これは興味深い。直接私に来なかったのは、建前上の個人情報保護の名目。

 契約時に、アパートメントの管理会社が鹿ノ島かのしま悠士ゆうしの容姿を把握しているのは当然として、私がそのやとお辿り着けたな。


 そこに至った権限や管轄は? 防犯カメラの情報について、管理会社と警備会社の法的な棲み分けは? 権限や管轄はどの範囲まで有効? 刑事か民事まで発展した?


 これは調べてみたいな。


 悠士さんから視線を反らしたまま思案している私の聴覚は、小さくて短い息が悠士さんの形が良い鼻を通った音を拾った。いつまでも視線を外している訳にもいかず、その音をきっかけに姿勢を悠士さんに向ける。


 そこにあったのは予想通りの表情。微笑みを乗せた垂れた目尻をすがめて、私を見ている。身長差も手伝って、少々見下みおろされる格好にはなるものの、この悠士さんの表情、私はたまらなく好き。何と言うか、本能的に腰の裏に届く視覚上の刺激。


 おっと、見とれている場合やなかった。


「悪い顔になってた?」


「大事な彼氏を放置して困らせていても許される程、罪深くも魅力的なくらいに、ね」


「そんなセリフ、どこの本から引用してるの? それで、大切な話は何?」


「は? もう済んだよ」


 今のが? この、お高級チョコレートの一件の事? 別れ話じゃないんかい! 


「どうした? 別の何かを期待していたの?」


 思い切り肩透かたすかし、みたいな表情になったんやろな。面白いものを見付けたみたいに、声を立てずわろうてはるわ。


「風呂、入って来るよ。じゃないと、友希さんにキスできないから」


「はいはい、着替えは適当に選んで置いておくから、ごゆっくり」


 浴室に行きやすいように、悠士さんから荷物や時計、スーツの上着なんかを受け取りながら素っ気なく受け流す。

 私の表情は読みにくいらしいけれど、悠士さんにはバレバレの時がある。


 今も、そう。本当に、悠士さんは不思議なお人や。他のお人なら不快で仕方がない事も、悠士さんなら平気って事が多々ある。


 外出先から帰った人間の持ち物なんて、触りたくもない。でも、私の手や腕に掛かっている物は、信じられないが現実に間違いない。


 何で、こんな事が出来るようになったんやろ? 抵抗もなく当たり前のように、悠士さんから受け取っている私自身の変化には、驚かされてばかりやった。



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