桜の国の彼女 その二




「ごめん、読書の邪魔した?」


 女性にしては低く、こもった声が俺に向けられる。色々な事を考えながら友希ゆうきを見ていたから、というのもあるのかもしれないが、俺の熱視線の気配でも感じたのだろう。彼女の方から目を合わせて来てくれたのだ。


「まさか、友希の事をずっと考えていただけ」


 うん、嘘ではない。


「私の事を考えながら読める内容じゃないと思うけどな。とは言え、そこは悠士ゆうしくんの自由だよね」


 白い不織布ふしょくふマスク姿でも、笑っている事が分かる。切れ長の目を細めて微笑んでいるから。

 俺の返事は軽口のようではあるけれど、本当に嘘ではない。見透かされているような後ろめたい気がするのは、何も惚れた弱味だからでもない。


 友希の勘は、恐ろしいくらい相手の腹の内を、思考を射抜いて当てて来る。


 その時の視線を浮かべているのだから。


「ここは悠士くんの生活圏で部屋の主。私が異分子なんだから、私が立てる生活音で何か迷惑になる事があったら遠慮なく教えて欲しい」


「そんな言い方をしなくても良いだろ? ゲームのコントローラーを連打する音なんて気にならないよ。むしろ、俺の方が先に友希さんに大迷惑を掛けたじゃないか」


「迷惑って程のものじゃ? っえふぃ!」


 彼女が素早く背を向け、マスクをしているのに腕で口元を覆って、面白いクシャミをした。


「悠士くんのせいでも、スギやヒノキのせいでもないよ」


 コントローラーを床の上に置き、彼女は赤い縁の眼鏡を外しながら涙を拭いた。悲しいからではなく、花粉アレルギー反応によるものなのは分かっている。

 俺はいつもの習慣で、窓を全開にして空気の入れ換えをした。数分後には、友希はクシャミを連発し、鼻声になってしまったのだ。


 そんな状態なのに、友希は珈琲を淹れてくれた。気分転換になるからとは言っていたけれど、換気扇の近くに行く口実だったのかもしれない。


 でも今は、ローテーブルに設置したPCモニターを前にしている。ソファーには座らず背もたれにして、床に座ってゲームをするのが彼女のスタイル。会話する程度、症状も落ち着いたみたいだ。


 しかし、友希の遠慮癖は再発した。


「何かあれば改善するから、正直に言って欲しい」


 そう言って友希は、眼鏡を掛け直しで再びコントローラーを手に持つ。視線をPCモニターに向けたまま、俺に語り掛けた。


「家族は大好き。でも、家族と離れて凄く楽しいの。休みたかった」


 友希の口調が、わざと作られたものになる。注視する俺の視線と友希の視線が重なった。友希が、俺の方を向いたから起きた現象だ。


 褒めて称賛するなら、涼しげな友希の目元が挑発的にスッと細くなる。


『ネタ元は分かる?』


 言われているようだった。


「君の事をずっと見てたけど、良くやってると思う。家族をやるって大変だもの」


 俺も、元ネタのセリフで応える。古いけれど、友希が好きなドラマだからすぐに覚えた。それにこの間、二人でその作品の映画版を鑑賞したばかりだ。


「っははは。悠士くんは、私の家族と居る場面を見てないでしょ」


 友希は既に視線をゲーム画面に戻し、言葉を放つ。内容もあいまって、俺の事まで突き放しているような響き。友希はたまに、こうやって俺を冷たく突き放すような態度を取る。


「冗談だけど、乗ってくれてありがとう」


 物理的な距離とマスクで消えそうな言葉は、俺に届いた。本音を隠そうとしている気配も。どんな喧騒の中でも、友希の声も言葉も聞き取れる自信がある。幻聴だろうと言われようと、狂っていると他人に指摘されても関係ない。


『君が現実に気付いて、目が覚めるまで付き合うよ。私には、私だけの時間が残されているだけだから、君の時間にいくらでも付き合える。だから、早めに気付いて欲しいねぇ』


 俺にとって初めての恋愛は、いきなり不利な条件から始まった。来年、四十になるのに初めてというのもおかしいけれど、人間なんて生き物に恋愛感情を持つ日が来るとは、友希と出会うまで思っていなかった。



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