第8話:家庭的な匂い
***
動画視聴サービスでゾンビ映画を観ながら、すみれが料理するのを待った。
しばらくすると、室内に肉じゃがのいい匂いが漂ってきた。
キッチンの方を見ても、洋室と隔てるドアは閉まってるから、すみれの細かな動きはわからない。
だけど時折聞こえる物音やドアのスリットガラスに映る人影で、すみれが忙しく作業をしていることがわかる。
──新婚生活って、こんな感じだったのかな。
ふと
学生時代からの楽しかった思い出。懐かしい日々。そんなことが思い浮かぶ。
いや。香織のことは振り返らないで、前向きに生きようと決めたじゃないか。
──前向きに行こーぜ!
それが俺のポリシーだ。
今この部屋のキッチンに立っているのは、香織じゃないんだよ。
俺は改めて自分にそう言い聞かせる。
そう。今キッチンに立っているのは──女子高生。
──いやいやいや!
いきなり思考が現実に引き戻された。
改めて考えると、結構ヤバくないかこの状況?
どこの誰だかわからない女子高生(あくまで自称だが)が、俺の部屋のキッチンに立っている。
晩飯を食ったら、ホントに二度と来ないんだろうな。いや、二度と来ないように、重々言い聞かせなきゃならない。
その時突然ドアがガチャリと開いた。
「うわっ!」
いかん。なんか色々考えてたから、急にすみれの姿を見て焦ってしまった。
「ん……なに?」
「いや、何でもない」
「でき上がったから運ぶよ」
「お、おう。手伝うよ」
「お願い」
また『邪魔だ』とか言われるかと思ったけど……案外素直だな。
それにしても、ドアを開けて一気に流れ込んできた肉じゃがの匂いが、めちゃくちゃ旨そうで食欲をそそる。味噌汁のいい香りもした。
すみれと二人で手分けして料理を部屋に運んだ。一人向けのちっちゃなローテーブルが、あっという間にお皿でいっぱいになる。
──ん?
テーブルの前に座ると、違和感に気づいた。
なぜか二人分、箸が置いてある。
俺の前にあるのは、今朝、俺が段ボール箱から出して、キッチンの引き出しに入れたものだ。だから良しとしよう。
けどすみれの前にある赤い箸はなんだ?
「いただきます」
すみれは何事もなかったように、その赤い箸を両手に挟んでペコリと頭を下げた。
「あの……すみれ?」
「ん? 遠慮しないで食べなよ。別におあずけなんて言ってないでしょ」
──俺は犬か!?
「いや、そうじゃなくて。その箸は?」
「食材と一緒にさっき買ってきた」
「は?」
「毎回割り箸だと不便だからさ。地球環境にも良くないし」
ほぉ。高校生なのに、環境問題に興味を持つなんて立派じゃないか。
──じゃなくて!
「毎回って、お前、これからも来るつもりかっ?」
「うん、そうだけど」
極めて当たり前のように答えてから、すみれは肉じゃがを口に入れた。
「うん、美味しい。上手くできてる」
いつもは無表情か怒った顔が多いすみれが、目を細めてコクリと頷いた。
コイツ、笑うと優しそうに見えるんだよなぁ。
「ほら。春馬さんもどうぞ」
「いや……どうぞじゃなくだな。お前な……」
「そんな話は後でいいでしょ。ちゃんと食べないと、作ってくれた人に失礼だよ」
「あ……」
失礼って……
人様の家に勝手に来ることを決める方が、よっぽど失礼だっての。
──とは思ったが。
目の前の肉じゃががあまりに魅力的に見える。匂いも俺の食欲をビシバシ刺激する。
それにすみれが言う『食べるのを後回しにして他の話をするのは失礼』というのにも一理はある。
「わかったよ。食うよ」
「どうぞ」
俺も肉じゃがをひと口頬張った。
じゃが芋が口の中で、ほろほろと優しく溶ける。中までしっかり煮えてて、芯の残りは全然ない。
味も濃すぎず薄すぎず、出汁の香りも良い。
なんだこりゃ!?
「う……旨い。旨すぎる」
思わずそう口にしていた。
いやマジで旨いぞコレ。
味噌汁もコクがあって絶品だ。
コイツ、めちゃくちゃ料理上手だな。
あ然としてすみれを見た。すみれは何も言わないけど、いかにも『当然でしょ』なんて顔をしてる。
ちょっと悔しいが、俺は無我夢中ですみれの料理を食べた。そして気がついたら、あっという間に食べ終わってた。
「ご、ごちそうさま」
「お粗末さま」
「いや……お粗末って言うか……マジ旨かった。すみれって料理上手なんだな」
「お世辞なんかいいよ」
言い方はつっけんどんだが、すみれはちょっと照れ臭そうに顔をほころぼせた。鼻の頭をポリポリと掻いてる。
そういやコイツ、よくこの仕草をするよな。だいたい照れ臭いような時だ。
すみれのことが一つわかって、なんだかちょっと嬉しい気がした。
──あ、いや。何を喜んでるんだよ。
もう二度と会わない相手だ。わかろうがわかるまいが関係ない。
すみれも食べ終わった。
「片づけは俺がする」
「それもあたしがやる。昨日は春馬さんが食器洗いまでやったんだから」
「いや俺がやる。ここまで手の込んだ料理を作ってもらったんだ。片づけまでやらせたら、俺の料理と釣り合いが取れない」
「ん……真面目かお前」
俺の口調を真似てすみれはそう言った。
今日コイツが来た時に俺が言ったセリフそのままだ。
「そうだよ。真面目なんだよ俺は」
「ふぅん」
「これでお返しは充分だ。だからもう帰れ」
「あ、うん。わかった」
──あれ?
昨日みたいにもっと渋るかと思ったら、案外素直に了承したな。意外だ。やっぱり単に昨日のお返しをしに来ただけなのかな。
でもまた来られても困るし、念押しをしとこう。
「ホントにこれでお返しは充分だからな。二度と来るなよ」
すみれは真顔で俺をじっと見つめてる。何か不満があるのか?
いや。不満と言うより、すみれの瞳は何か寂しげにも見える。
「……もう二度と来ない」
最初の方はぶつぶつと小声で、よく聞き取れなかった。だけどすみれははっきりと、もう二度と来ないって言った。
これでいい。コイツが寂しげな目をしてようがしてまいが、俺には関係ない。女子高生が一人暮らしの男の部屋になんか来ない方がいい。
すみれは案外律儀だし、これだけはっきり断言したんだから、きっと約束は守る……よな?
「嘘つくなよ」
「ジョシコーセー嘘つかない」
ん? また片言のような棒読み。ふざけたような言い方が、今イチ信用できないけど、ホントに大丈夫か?
「なあすみれ。お前は橘さんの友達だからこの部屋に来てたんだろ。だけど今は俺の部屋だ」
「わかってる」
「俺とすみれは赤の他人でなんの関係もないんだ」
「ん……そっかな……」
どうした?
すみれは心なしかモジモジして、手でお腹をさすってる。
「あたしの中に……
「えっ?」
え? え? え?
どゆこと?
赤ちゃんができた?
あ、いや、赤ちゃんができるようなことはしてない。してない……よな?
それとも俺の記憶がぶっ飛んでるだけで、気づかぬうちにそういうことをしてたとか?
いやいやいや!
いくらなんでも、そりゃあり得ないだろ。
すみれのヤツが俺をからかってるんだよな?
「おいすみれ。どういう意味だ?」
「あたしの苗字。『はるまち』っ文字の中に、『はるま』って文字がある」
「は?」
なるほど。確かに。
春の字が共通していることは気づいていたが、『はるま』まで一緒だってことまで気が回っていなかった。
コイツ、面白いことに気づいたな。
──って感心してる場合か!
くそガキにからかわれてしまった。腹立つ。
「……で。なんでお腹をさすってるんだ?」
「さっきお腹いっぱい食べたから苦しい」
「はぁ? 紛らわしい仕草すんな!」
「紛らわしい? 何が?」
すみれはきょとんとしている。
──あ。コイツわざとじゃなくて、無意識だったみたいだ。
「あ、いや、なんでもない。気にすんな。とにかくもう来んなよ。絶対だぞ」
「まあ、さっき言ったとおりだから」
「それならいい」
すみれはそのまま素直に玄関に向かった。玄関から出るすみれを見送って、俺は玄関ドアの鍵を締めた。
──ふうっ。
これでホントに、嵐は過ぎ去った。
ひと安心して、二人分の食器を洗い始める。
部屋の中にまだ残っている肉じゃがの匂いが、なんだかとても家庭的な感じがした。
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