第12話 魔王陛下の苦い声
「―……どうした、イリーナ」
執務室に入ってきたイリーナに、書類を見ながらアルノーは声をかける。
普段は魔黒茶などを差し入れとして持ってくるイリーナは、今回は直立不動でありながら部屋の入り口で俯いている。
「いつも何くれと俺の世話を焼こうとするお前が、らしくはないな?いったい何が不安だ」
声をかけてから数枚の書類の裁決が終わるころ、やっとイリーナが口を開く。
「……陛下。ファルパレス侯爵家から、昔…婚約の打診が来たりはしませんでしたか?」
「……ああ、それか」
そうだったか?なんて返ってくると思っていたイリーナは、思わず顔を上げた。
シャノンは「あの方は気づいても覚えてもいないようだ」なんて言っていたから、実際そうだと思ってしまっていたのに。
「…覚えているよ。俺が、枢機卿になった直後の頃の話だ。
「……シャノン嬢も、覚えていらっしゃいましたよ」
「そうか」
短く答えて、手に持っていた書類に何事かを書きつけたアルノーは椅子から腰を上げる。
「……イリーナ、少し歩こう」
・ ・ ・
執務室を出たアルノーはイリーナを伴って、城の中庭にいた。
魔素が空気中に充満しているため、人族の城だったら色とりどりの花が咲き乱れるところが紫や黒、赤などの毒々しい色合いになっている。まれに牙を生やし、舌が飛び出るあからさまな花も在るくらいだ。
「…俺がファルパレス家の御令嬢との婚約を拒否したのは、俺には神からの【幸福】は与えられないとわかっていたからだ」
枯れ果てた噴水の前に立ち、アルノーは空を見上げた。
「それは…」
言い澱むイリーナに、大丈夫だ、とアルノーは首を振る。
「聖教国は俺を早いうちに表信者にしたかったんだろうな。俺には、常に人よりも多量の試練が課されていたから」
幼いころに母と引き離され、母を取り戻そうとすれば無茶な要求が行われた。表信者を求めたあの国は、アルノーをそう仕立て上げようとしていたのは幼かった彼でも察してはいた。
表信者になれば、それを抱える聖教国は人族国家の中で最も偉大な国となる。逆らうものは存在しなくなる。それが故に、ちょうどいいと思われたんだろう、とアルノーは呟いた。
「聖女派は表立って聖教国の方針に逆らうことはしない。智慧ある者は自分から窮地を望まない―――よっぽどのことがなければ、な」
智慧を重視する聖女派が忌避するのは【無為の死】だ。犬死ともいう。智慧は情報で、知識を持つ者が気づく唯一無二のもの。それを継承せず、ただ何も為せずに死ぬことは避けるべきというのがその一派の認識である。
「幼かった俺にとっては、知識、智慧の喪失よりも【母の不在】こそ何を犠牲にしても避けたかった。妹や、血族の者達はその幼い俺にとっても庇護する対象で、一族の長たる
何があっても、と魔王の口から言葉がこぼれる。
「―――俺と相打ちになった夢魔王プリシラは、俺の母と共に魔王討伐のために出征した勇者の一人だった」
アルノーの耳に、イリーナが息をのむ音が聞こえる。
視界を閉ざせば思い浮かぶ、アルノーの人としての
同じく、刻みに刻んで再生が追い付かなくなり、体が崩壊しかけたプリシラが教えてくれたあの言葉。
何が、「貴方の母は貴方を愛していた、復讐を望むなと願っていた」、だ。
その言葉を、もう思い出せないその声を、温もりを、笑顔を!物理的に奪った連中をどうして庇う必要があるというのだ!!
許せるはずがない。人を辞め、死を我が身の内に飼いならしたとしても、この恨みだけは消化できそうにないことを自分は知っている。
「母を喪った俺に押し付けられた試練の数々は、俺に人としての【感情】、【恋愛】や【希望】、【願望】を持つ暇を失わせたともいう」
空を見上げていた顔を下げて、背後のイリーナに向き直る。
「シャノン嬢、彼女には悪いことをしたとは思っているが…今の俺にも、彼女に応える術はない。ヒトだったころならまだしも、今の俺は魔王で、彼女は人族だ。王配が必ず死する政略結婚など国家にあってはたまらんし、彼女は魔王の配偶者として確固たる自己を持てるかどうかはわからない。その前提を踏まえて、今の俺が何かの感情を持つなら…人である彼女に望むことはただ一つだ」
端正な顔に苦笑いを載せてアルノーは歩き出す。
「……人間国家を蝕む毒に…なってもらいたいとしか、言えないんだ」
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