第6/6話 車窓から落ちる

 体が、前方へ、ずるずる、と滑り落ちていった。その途中で、唐突に、ぐん、と、ベルトが、何かに引っ張られた。いや。覧覚の左脇に挟み込まれ、引っ張られていたベルトが、突如、動かなくなった、と形容したほうが正しいか。

「な……?!」

 ぶんっ、と体が反時計回りに回転した。両脚の膝より下が、窓ガラスの、穴より右側のあたりに衝突した。直後、がしゃあん、という音を立てて、それを突き破った。

 もはや、覧覚は、全身が車外に出ていた。俯せの状態で、地面めがけて、落ち始めた。

「ぬう……!」

 しかし、覧覚が地面にぶつかることは、なかった。ぐん、と、左脇で挟み込んでいるベルトが、引っ張り上げられたのだ。

 顔を、上に向ける。窓枠の下辺から、ベルトが垂れていた。彼は、それを左脇で挟み込むことにより、電車の側面にぶら下がっているのだ。どうやら、バッグ本体は、車内に残っているらしい。

「くうう……!」

 もはや、車内に戻ろうとしている場合ではなかった。なんとか、バッグを外に出して、自分ごと、落下させるしかない。

 覧覚は、ぐい、ぐいっ、とベルトを引っ張った。一瞬、千切れてしまうのではないか、という不安が、頭を過ぎった。

 しかし、それは、すぐさま解消された。犯人曰く、ベルトは、とても丈夫に出来ているらしいじゃないか。

 彼は、それからも、ベルトを引っ張り続けた。そのうちに、線路の敷かれている地面が、線路の脇にある地面よりも、高くなり始めた。その高低差は、しばらくして、三メートルほどになった。

 しばらくして、覧覚は、現在位置から数メートル進んだ所における、線路の脇にある地面に、木が生えていることに気づいた。たくさんの枝および葉を有する、大きな樹冠が、ひどく迫り出しており、電車の側面を掠めそうになっていた。

 しかし、どうすることもできなかった。数秒後、彼は、樹冠の中に突入した。体のあちこちが、枝にぶつかり、それらを、ばきばきばきっ、と、へし折っていった。

「ううう……!」

 直後、どすんっ、という衝撃と、ずきんっ、という激痛を、右目に食らった。思わず、ばちばちばち、と瞼を高速で開閉させた。

 数秒後、樹冠の内部を通り過ぎた。しばらくして、覧覚は、視野が平面的になっていることに気がついた。

 試しに、右瞼を開けたまま、左瞼だけを閉じてみる。目の前が、真っ暗になった。右の眼球が、樹冠の枝の直撃を食らったせいで、損傷を受け、機能しなくなってしまったに違いなかった。

「クソ、クソ、クソ……!」

 覧覚は、なおも、ベルトを、ぐい、ぐいっ、と引っ張り続けた。すでに、トンネルまで、残り百メートルを切っていた。

 なんとしてでも、バッグを落とさなければならない。いつの間にやら、線路が敷かれている地面と、線路の脇にある地面との高低差は、ほとんど失われていた。

 次の瞬間、ばきっ、という音が、頭上から聞こえてきた。直後、ずるっ、とベルトを手前に引くことに成功した。

 それだけだった。ベルトの根元に、バッグは、くっついていなかった。どうやら、ベルトと本体を繋いでいた部分が、壊れたらしかった。

「……!」

 覧覚は、空中で、手足を、ぶんぶん、と振り回した。しかし、どうにもならなかった。

 数瞬後、どちゃっ、と地面にぶつかった。そのまま、ごろごろごろごろごろんごろんごろん、と転がっていった。

 しばらくして、体の回転が収まった。その時、覧覚は、俯せとなっていた。

 全身に、激痛が走っていた。辺りの地面は、流れ出る血で、真っ赤に塗り潰され始めていた。

「……」

 覧覚は、顔を上げた。ゆるり、と頭を動かすと、線路の先に、視線を遣った。

 ちょうど、その時に、さきほどまで乗っていた電車が、トンネルに入りきって、見えなくなった。

 直後、ぴりりりり、という電子音が、体の左斜め前あたりから聞こえてきた。

 そちらに、視線を遣る。ズボンのポケットから零れ落ちたらしいスマートホンが、蓋を開き、上を向いた状態で、転がっていた。

 それのディスプレイには、着信画面が表示されていた。電話をかけてきたのは、「泥埠洲穂」となっていた。犯人が連絡をとろうとしているに違いなかった。

「……」

 覧覚は、右手を、スマートホンめがけて伸ばそうとした。しかし、伸ばせなかった。いくら、右肩を動かしても、右腕が、視界に入らないのだ。

 右肩に、視線を遣る。前腕の真ん中から先が、失われていた。断面から、白い尺骨および橈骨が、突き出ていた。

 電車から落下して、地面を転がっている最中に、千切れたのだろう。車輪に巻き込まれ、轢断されたのかもしれない。

「……」

 覧覚は、左肩に視線を遣った。そちらは、上腕の真ん中から先が、失われていた。断面から、白い上腕骨が突き出ていた。

「……」

 覧覚は、両脚をばたつかせてみた。脛から下は、わからないが、少なくとも、膝から上は、しっかり存在していた。

 彼は、腰を上げると同時に、脚を屈すると、膝を地面に突っ張った。その後、脚を伸ばすと同時に、腰を下ろして、上半身を、ずずず、と前へ動かした。傍からは何らかの昆虫のように見えるだろうなあ、と、他人事のように、ぼんやり思った。

 なんとか、着信音が鳴り止む前に、スマートホンの所へ辿り着いた。顎で、ディスプレイに表示されている、応答ボタンをタップした。

「どういうつもりだ!」犯人の怒鳴り声が、スピーカーから聞こえてきた。「発信機によれば、バッグは、まだ、電車の中じゃねえか! まさか、てめえ、身代金を払わねえつもりか?!」

 彼は、明らかに激昂していた。それから、しばらくの間、一方的にがなり立てた。

 その後、すうー、はあー、という、深呼吸をする音が聞こえてきた。

「いいか、よく聴きやがれ。おれは、できれば、身代金が欲しい。いろいろと計画を練り、準備を行ったというのに、けっきょく、一銭も得られない、なんてことは、できれば避けたいんだ。

 弁明しろ。身代金を車窓から落とさなかった理由を話すんだ。そのうえで、謝罪しろ。そうしたら、また、受け渡しのチャンスを、くれてやる。ほら、お前らからも頼みやがれ!」

 その後、びりっ、びりっ、という、テープの類いを剥がすような音が鳴った。犯人が、洲穂たちの口に貼られていたそれを、取り除いたのだろう。

「あなた!」洲穂の声が聞こえてきた。「どうしたの? 大丈夫なの? 何か、トラブルにでも巻き込まれたの?」

「お父さん」堤治の声が聞こえてきた。「ぼくは、大丈夫。大丈夫だから。まだ、待っていられるから」

 早く、事情を説明しないと。そう思い、覧覚は口を開いた。

 しかし、声が出なかった。どれだけ、肺を拡縮させても、喉に力を込めても、口からは、息が、勢いよく吐かれるだけだ。電車から落下し、地面を転がった時に、声帯が傷つき、機能しなくなってしまったに違いなかった。

「ちょ……ちょっと! あなた! どうして……どうしてなの? どうして、何も言わないの?」

「そんな! お父さん。言ってよ。ちゃんと、事情を説明してよ」

 その後も、覧覚は、もはや、何でもいいから、声を出そうとした。しかし、どれだけ頑張っても、ただの一言も発せなかった。そのうちに、視界が霞み始め、意識に靄がかかりだした。

「おーし、わかったわかった」犯人の声が聞こえてきた。非常に苛ついているであろうことが、電話越しでも、容易に感じ取れた。「てめえが、そういうつもりなら、こっちにも考えがあるってもんだ。もう、身代金なんて、どうでもいいや。舐めやがって。クソが。舐めやがって」

「酷い。酷いわ。あなた。怨んでやる。怨んでやるからあ……」

「お父さん。助けて。助けてよ。うえええ。お父さあん……」

 その後、がし、がしっ、という、何かが掴まれる音と、ずず、ずずっ、という、何かが引き摺られる音と、どさ、どさっ、という、何かが落とされる音と、「きゃっ」「痛っ」という、洲穂たちの悲鳴と、ぽちっ、という、何かが押される音と、「圧搾を開始します。機械から離れてください」という、無機質的なアナウンスが聞こえてきた。

 さいわいにも、洲穂たちの断末魔を耳にする前に、覧覚の意識は途切れた。


   〈了〉

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