第5/6話 開かない窓

 四両目には、もはや、覧覚と、もう一人しか、乗っていなかった。そいつは、二十代くらいの男性で、スーツを着ていた。進行方向に対して右側の壁に設けられている、三箇所あるシートのうち、真ん中に位置している物の、向かって右端に座っている。腕を組んで、居眠りをしていた。体の、向かって左横には、中身の入ったレジ袋を置いていた。

 一秒後、電車は、駅を出た。もしかしたら、さきほどの、不良男とのトラブルを、誰かに通報され、運行に悪影響が出るのではないか。そんな心配を抱いていたが、どうやら、杞憂に終わったようだ。覧覚は、他の利用客たちの見て見ぬフリに、心から感謝した。

 そこで、ようやく、左手首が、ずきずき、と痛んでいることに気づいた。そちらに、視線を遣る。

 手首が、赤くなっていた。目立つほどではないが、わずかに、腫れてもいた。

 試しに、手首を、軽く捻ってみた。即座に、ずっきん、という激痛を味わった。思わず、小さな呻き声を上げた。

 不良男に腹部を殴られ、転んだ時、反射的に、左手を床についた。どうやら、その拍子に、挫いてしまったようだ。

 まあ、バッグを窓から落とすのには、支障はないだろう。負傷していない右手を使えばいいだけだ。

 覧覚は、そう結論づけると、それからも、窓の外に視線を遣り続けた。そのまま、五分ほどが経過した。

 彼は、だんだん、不安を抱き始めた。次は、終点の多巳名駅だ。そこへ至るまでの間に、目印が出てくる、ということだろうか。それとも、まさか、もう、見逃してしまったのでは。

 いやいやいやいや。覧覚は、ぶんぶん、と頭を激しく左右に振った。まだ、絶望に陥るのは、早すぎる。終点まで、あと、十分はかかる。そこへ向かっている最中に、落書きが現れる、という可能性は、じゅうぶんにあるだろう。

 彼は、その後も、窓の外に視線を遣り続けた。多巳名駅が近づいてくるにつれ、不安は、どんどん増大していった。

 しかし、それは、一分ほどが経過したところで、完全に解消された。ついに、目印を発見したからだ。

 線路から数百メートル離れた所に、小さな倉庫が建っている。それの外壁に、例の落書きが描かれているのだ。

 倉庫は、南北に長い直方体のような見た目をしている。それの南方には、林が広がっていた。そこに立ち並んでいる木々が邪魔をしていたため、電車の緯度が、倉庫の緯度を上回るまで、落書きに気づかなかったのだ。

 現在地と多巳名駅の間には、沌涅(とんね)山がある。そこには、トンネルが設けられていた。

 犯人は、「目印が見えている間にバッグを落とせ」と言った。電車が、トンネルに入ってしまうと、当然ながら、目印は見えなくなってしまう。その前に、バッグを落とさなくてはならない。

 逆に言えば、電車が、トンネルにさえ入らなければ、たとえ、それの入り口の一メートル手前であったとしても、目印は、見えている。犯人の指示に反することはないはずだ。

 覧覚は、ごくり、と唾を飲み込んだ。目の前にある窓に手を伸ばし、サッシの枠を掴む。下に向けて、引っ張ろうとした。

 しかし、それは、動かなかった。

 覧覚は、あんぐり、と口を開けた。思わず「馬鹿な」と呟いた。「そんな馬鹿な」

 彼は、その後、何度も、サッシを開けようとした。しかし、がたつかせるどころか、ぴくりとも動かせられなかった。

 しばらくして、アナウンスが流れた。「今月、一日から、お客さまの安全のため、窓を施錠しています」今日は、二日だ。

 どうしよう。覧覚は、心の中で呟いた。サッシが、開けられないようになっているとは。このままじゃ、鞄を外に落とすことなんて。

「いや!」

 覧覚は、思わず大声を上げた。サッシが施錠されていても、鞄を外に落とすことはできる。ガラスを割り、穴を開けてしまえばいいのだ。多巳名駅に着いた後、大きなトラブルに発展するだろうが、目印は、もう見つかっているので、これ以上、電車の運行の正常さに拘る必要はない。

 覧覚は、ばっ、ばっ、と辺りを見回した。窓を破壊する道具として使えそうな物がないか、探す。

 あった。目の前に設けられているシートの、向かって右端に座り、居眠りをしているサラリーマンが、体の、向かって左横に、レジ袋を置いている。その中に、瓶らしき物が入っているのを見つけた。

「す、すみません!」

 覧覚は、思わず、そんなことを言いながら、だだだ、とサラリーマンのいる所に駆け寄った。到着するなり、レジ袋を引っ掴む。即座に、中に入れられている物を取り出した。

 それは、酒瓶だった。深緑色をしたガラスの上に、長方形をしたラベルが貼られている。全体的に、円柱の形をしていて、首部から上は、六センチ強、肩部から下は、二十センチ強の長さがあった。

「これで……!」

 覧覚は、酒瓶を逆さにすると、右手で、首部を握り締めた。思いきり、振りかぶってから、前方へと、スイングする。

 胴部が、窓に、があん、と命中した。びきっ、という音が鳴って、ガラスに、大きな放射状の罅が入った。

「よし……!」

 覧覚は、さらに窓を殴りつけるべく、右手を後ろに振った。

 首部が、ぬぽん、と手からすっぽ抜けた。ひどく緊張しているせいで、掌が、汗に塗れていたのだ。

 覧覚が、ばっ、と後ろを振り返り、酒瓶に視線を遣るのと、吹っ飛んでいった、それの胴部が、網棚を構成している金属棒にぶつかり、がしゃあん、という音を立てて割れるのとは、ほぼ同時だった。

 酒瓶の上半分と下半分が、落下した。それらも、床にぶつかると、がちゃんがちゃあん、という音とともに、砕けた。

 同時に、中に入っていた飲料も、辺りに、ぶち撒けられた。アルコールの芳醇な香りが、車内に漂った。

 あれでは、もう、窓を殴りつけられない。何か、他に、道具として使えそうな物はないか。

 覧覚は、そう思い、ばっ、ばっ、と辺りに視線を遣った。しかし、何も見つからなかった。

 どうする。三両目または五両目へ行き、適当な利用客から、道具として使えそうな物を、強奪するか。

 いや。そんなことをしたら、大騒ぎになる。最悪の場合、取り押さえられ、行動できなくなってしまうかもしれない。それだけは、避けなければならない。

「仕方ない、これで……!」

 覧覚は、右手で、ぎゅううっ、と拳を握った。それを後ろに引いてから、サッシめがけて、勢いよく突き出す。

 拳は、サッシにぶつかると、そのまま、ばりいん、とガラスを割った。窓に、野球ボール大の穴が開いた。

 右手に、さまざまな大きさの、多角形をしたガラス片が、降り注いだ。

「ぬおお……!」覧覚は、唸り声を上げながら、それを引っ込めた。

 小指の、第一関節から先が、切り落とされ、失われていた。手の甲が、ぱっくり、と切れており、そこから、赤い肉や白い骨が見えていた。

 他にも、無数の切り傷が出来ていた。それらから、血が、どくどくどく、と流れ出ており、前腕を真っ赤に染めていた。

 覧覚は、再び、拳を握ろうとして、右手に力を込めた。しかし、握れなかった。どれだけ、力を入れても、手首から先が、動かないのだ。筋肉あるいは神経の類いが傷つき、機能しなくなってしまったに違いなかった。

 出血量からして、動脈を切ったわけではなさそうだから、失血死する可能性は、低いだろう。それだけが、さいわいだった。

「右手が駄目なら、左手だ……!」そう思い、覧覚は、左手で拳を握ろうとした。

 しかし、できなかった。手を閉じている間、絶え間なく鈍痛が走るのだ。そのため、一秒も、拳の形を保ってはいられなかった。不良男に腹を殴られ、転んだ時に、左手をついたことにより、挫いたせいだ。

「ぐう……!」

 覧覚は、ぎりり、と歯を食い縛った。口を閉じると、頭を、後ろに動かす。

 それから、間髪入れずに、前方へと振った。窓に、頭突きを食らわせる。

 がっしゃあん、という音がして、ガラスが割れ、開いていた穴が大きくなった。それは、ようやく、バッグを通せるほどのサイズになった。

 頭に、さまざまな大きさの、多角形をしたガラス片が、降り注いだ。

「ぐおお……!」

 覧覚は、唸り声を上げながら、首を引っ込めた。頭を上げると、窓ガラスのうち、割れていない部分に、視線を遣った。

 そこには、自分の顔が映り込んでいた。額や頬、顎などに、たくさんの切り傷が出来ていた。それらからは、だらだらだら、と血が流れていた。

 わずかな違和感を抱いたので、よく観察してみた。数秒後、右の耳朶が失われていることに気づいた。降り注いだガラス片により、切り落とされてしまったに違いなかった。

「クソ……」

 そこで、左肩からぶら下げているボストンバッグが目に入り、はっ、と気がついた。これを、窓にぶつければよかったではないか。身代金が詰まっているせいで、じゅうぶんな重さがある。酒瓶のおかげで、罅を入れられていたのだから、ガラスを破壊することくらい、できたはずだ。

「くう……」

 いや。今は、過ぎたことを悔やんでいる場合ではない。とにもかくにも、窓に、大穴を開けられたのだ。後は、身代金を、外に落とすだけだ。

 覧覚は、身を屈めると、シートに両膝を載せた。左肩からぶら下げているボストンバッグを、窓の外に出そうとした。

 サッシに開いた大穴は、円形、というよりは、丸みを帯びた四角形をしていた。それの、四つある辺のうち、上辺・左辺・右辺は、ぎざぎざとしている。穴の下部は、窓枠に達しており、そこには、ガラスは残っていなかった。つまり、窓枠の下辺が、穴の下辺と一致している。

 そこまで視認したところで、ぐらりっ、と電車が大きく揺れた。

「うわ……!」

 ようやく、バッグを外に落とせそうだ、ということで、わずかながら、緊張が解けていたせいだろうか。覧覚は、姿勢を維持することができなかった。

 体が、がくん、と前傾した。両腿が、シートの背凭れに、どしん、と、ぶつかり、止まった。

 しかし、背凭れより上に位置している胴は、何にも衝突せず、止まらなかった。窓ガラスに開いている穴から、外へ出た。

 その後、鉄棒運動における前回りの要領で、体が回転した。上半身が、ぐらり、と傾き、下半身が、ふわり、と宙に浮いた。

「うわ、うわ、うわ……!」

 クソ、こうなったら、バッグごと、外に落ちてやる。覧覚は、そう心の中で喚いた。左腕を、体の前面に引きつけることで、左脇に、ぎゅうっ、とベルトを挟み込んだ。

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