第4/6話 乗客トラブル
どこかの学校の制服を着た、高校生くらいの女子だ。おそらくは、さきほど、覧覚が掃除用具を収納していた間に、改札口をくぐったのだろう。彼女は、ホームの北端にある、一両目の停車位置マークの前に立っており、スマートホンを弄っていた。
覧覚は、思わず、体を引っ込ませて、トイレに身を隠した。すうー、はあー、すうー、はあー、と深呼吸を繰り返す。
落ち着け、落ち着け。そう、己に言い聞かせた。女子高生が来たのは、現場の清掃が終わってからじゃないか。さきほど、ここで、殺人が行われた、だなんて、彼女は、露ほどにも思っていないはずだ。自分は、何食わぬ顔、ってやつをしていればいい。
覧覚は、最後に、すううー、はああー、と大きな深呼吸をした。その後、トイレから出ると、四両目の停車位置マークの前へと移動した。
ちらり、と女子高生の様子を窺った。顔は、できるだけ、向けないようにして、視線だけを遣った。
覧覚は、その後、二十秒ほど、観察を続けた。予想どおり、彼女が、何らかの行動を起こす、というようなことは、なかった。スマートホンを、弄り続けている。
思わず、ふううー、と安堵の溜め息を吐いた。顔も視線も、前方に戻した。
危ないところだった。そう、心の中で呟いた。もし、少しでも、希死女の隠蔽や、現場の清掃を、開始するのが遅れていたら、今頃、それらの場面を目撃されていただろう。
それからしばらくして、午後三時五十分になった。何事もなく、電車はやってきて、ホームに停まった。
覧覚は、ごくり、と唾を飲み込むと、それに乗り込んだ。中は、そこそこ混雑していた。
車両の片側に、扉は二箇所、シートは三箇所、設けられている。先端のほうから、短いシート、扉、長いシート、扉、短いシート、という風に位置していた。
座席は、すべて、利用客で埋まっていた。立っている者も、何人か、いる。
しかし、とうてい、満員電車、と形容するには至らない。かなりの空間的余裕があった。
覧覚は、ぐるり、と辺りを見回した。落書きを見つけるために、窓の外を見続ける必要がある。さて、どこに陣取るか。
最初は、扉の前にいようか、と思った。しかし、前扉の前には、男子高校生のグループが、後扉の前には、中年女性のグループがいて、無駄話を繰り広げていた。あれでは、彼らの体が邪魔になって、目印を見落としてしまうかもしれない。
ならば、シートだ。シートの前に立って、窓の外を見続ければいい。では、具体的に、シートの、どこの前に移動すべきか。
数秒、悩んだ挙句、前扉と後扉の間にあるシートの、ちょうど真ん中に立つことにした。やはり、真ん中にいたほうが、目印を見つけやすいのではないか、と思ったからだ。
覧覚は、目当ての場所へ移動した。そこの座席には、男性が座っていた。競馬新聞を広げているため、上半身の様子はわからない。下半身には、灰色をした長ズボンを穿いていた。
半秒後、扉が閉まった。電車が、出発する。「本日は、玲縷電鉄をご利用いただき、誠にありがとうございます」「途中で、電車が揺れることがあります。ご注意ください」などというアナウンスが流れた。
それから覧覚は、両方の瞼を見開いて、窓の外を見続けた。瞬きは、意識的に、かつ、即座に行うようにした。さすがに、それをしている間に、目印が通り過ぎてしまう、ということはないだろうが、それでも、心配になったからだ。
前扉と後扉の間に、窓は、五つ設けられていた。それぞれ、サッシを上から下へとスライドさせて開くような仕組みになっている。
覧覚は、今回の事件が発生する以前から、この路線を、よく利用していた。そのため、窓の開け方については、きちんと知っていた。たしか、サッシは、最大で、それの枠の上部が、窓枠の下部に重なるほどに、動かせるはずだ。
覧覚は、五つある窓のうち、中央に位置している物から、外の景色を見続けた。そして、そのまま、一分ほどが経過した。
まだ、目印は、見つかっていなかった。彼は、集中を切らすことなく、視線を遣り続けた。
その時、唐突に、電車が大きく揺れた。
窓の外を見るのに、集中していたせいだろう。覧覚は、足を踏ん張ることができなかった。
バランスを崩し、前にあるシートへと倒れ込む。本能的に、胴を支えようとして、両手を前方に突き出した。
左手は、どんっ、と窓につくことができた。しかし、右手は、席に座っている利用客の広げている新聞紙を、びりりっ、と破ってしまった。
その後、どしっ、という音を立てて、何か、柔らかい物を突いた。それは人体である、ということを理解するのに、数秒と要さなかった。
「おい! てめえ、何すんだ!」
新聞紙が、ばさっ、と下げられた。その後ろからは、男性が現れた。
年齢は五十代くらいで、とても厳つい顔をしている。髪はパンチパーマにセットしており、左頬にタトゥーを入れていた。両耳にはイヤリングを下げ、鼻にはピアスを通している。不良であることは、火を見るより明らかだった。
「すみません」
覧覚は、即座に謝罪した。今は、トラブルを起こしている場合ではない。
しかし、視線は、窓の外に向けていた。しかも、目印を探すことに集中していたため、どこか投げやりな調子の声になった。
「てめえ、ふざけてんのか!」
不良男は、新聞紙を足下に放り捨てると、ばっ、と立ち上がった。直後、覧覚の胸倉を、がっ、と両手で掴んで、引っ張り上げた。
相手の背は、覧覚よりも、十センチほど高かった。彼は、爪先立ちをする羽目になった。
不良男は、トップスとして、黒い長袖シャツを着ていた。左右の袖口から出ている両手は、とても筋骨隆々としていた。左手小指の第一関節から先が、失われているのが見えた。
「す、すみません」
覧覚は、もう一度、謝罪した。さきほどよりも、心を込めたつもりだった。
しかしながら、視線は、窓の外に向けたままだった。
「てめえ……」
視界の端に、不良男の顔面が映り込んでいた。彼は、明らかに怒っていた。眉間に深い皺を寄せており、額には太い血管が浮き出ていた。
「まもなく、硼巣(ほうす)競馬場前、硼巣競馬場前です」
そんなアナウンスが、スピーカーから流れてきた。不良男は、わずかに眉を上げた。
そう言えば、彼は、競馬新聞を読んでいた。おそらくは、硼巣競馬場前駅こそが、目的地だろう。
「すみません、本当、すみません。勘弁してください、見逃してください、お願いしますお願いします」
覧覚は、ひたすら、謝罪の言葉を繰り返し続けた。こうなったら、とにかく回数を重ねることで、相手を満足させるしかない、と判断したのだ。相変わらず、視線は、窓の外に向けたままだが。
不良男は、しばらく、覧覚を、ぎろり、と睨み続けた。その後、派手な音を立てて、舌打ちした。ぱっ、と両手を離す。
覧覚の左右の踵が、床についた。彼は、思わず、安堵の息を吐こうとした。
しかし、吐けなかった。肺を膨らませたところで、不良男が、覧覚の腹部を殴りつけてきたからだ。
「ごへっ!」
覧覚は、そんな呻き声を上げた。後ろへ、どたん、と転ぶ。
最初に左手をつき、次いで尻餅をついた。しかし、体の勢いは収まらなかった。腰から上も、倒れる。床に、後頭部が、ごちんっ、と、ぶつかった。
覧覚は、ばっ、と素早く上半身を起こした。慌てて立ち上がり、さっ、と窓の外に顔を向ける。
その後、大急ぎで、あちこちに視線を巡らした。さいわいなことに、目印は、姿を現してはいなかった。目を離したのは、ほんの数秒だけだから、見逃した、という可能性も低いだろう。
「はあー……はあー……はあー……」
覧覚は、荒い呼吸を繰り返した。腹部の内側が、ずっきんずっきん、と、ひどく痛んでいた。何らかの臓器が損傷を受けたのかもしれなかった。
もしかしたら、不良男に、再び、暴力を振るわれるのではないか。そんな懸念が、唐突に浮かんだ。彼は、視線を窓の外に遣りながらも、全身を強張らせた。
さいわいなことに、その心配は杞憂に終わった。その後、タイミングを見計らい、一瞬だけ、顔を、ばっ、ばっ、と左右に向けて、不良男の姿を捜した。
彼は、後扉の前に立っていた。あれでは、もう、攻撃を仕掛けてくるようなことは、ないだろう。
しばらくして、硼巣競馬場前駅に着いた。そこでは、四両目に乗っていた利用客のうち、かなりの数が、降りた。
覧覚は、ぐるりっ、と素早く周囲を見回した。不良男は、いなくなっていた。やはり、ここで下車したらしい。思わず、はあー、と安堵の息を吐いた。
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