第3/6話 証拠隠滅
「はあー……はあー……はあー……」
覧覚は、しばらくの間、荒い呼吸を繰り返した。はっ、と我に返ったのは、数十秒が経過してからのことだった。その頃には、もう、貨物列車は、駅を通過しきっていた。
人を殺してしまった。いくら、自殺志願者だったとはいえ、何の罪もない人を。
いやいやいやいや。覧覚は、ぶんぶんぶん、と激しく首を左右に振ると、良心の呵責を打ち消そうとした。申し訳なさに浸っている場合ではない。今は、とにかく、身代金の受け渡しを成功させる必要がある。罪悪感を抱くのは、それからだ。警察に出頭してもいいし、罪を償うために死んだっていい。
とにかく、これで、電車の運行に障害が出る、という事態は防げたわけだ。彼は、ふうーっ、と安堵の溜め息を吐いた。
その後、覧覚は、ぼーっ、と、希死女を眺め続けた。そのうち、新たな不安が湧き起こってきた。このことを、誰かに見つけられやしないか、という懸念だ。
餡窓駅は、普段の利用客が、とても少ない。とはいえ、まったくいない、というわけではない。この後、身代金の受け渡しを終えるまでの間に、誰かが、ホームに入ってくることは、じゅうぶんに考えられる。
もし、そいつが、希死女の死体を発見したら、どうするか。警察に通報するに決まっている。そうなったら、電車の運行に悪影響が出る可能性が、きわめて高い。
「不味い」思わず、覧覚は呟いた。「この殺人現場、なんとか、隠滅しないと……」
そうと決まれば、さっそく、行動を開始する必要がある。目当ての電車が来るまで、あと、二十分強しか残されていないのだ。
さいわいにも、希死女の隠し場所は、すぐに思いついた。多目的トイレの中だ。
あそこなら、死体を見つけられる可能性は低い。少なくとも、身代金の受け渡しが終わるまでは、隠し通せるだろう。ただでさえ少ない利用客が、すぐに処理しなければならないほどの便意を催し、しかも多目的トイレに入る確率なんて、零に近いに決まっている。なにより、このアイデアにおける、最大の採用理由として、他の隠し場所が思いつかない。
覧覚は、希死女の左右の足首を、がしっ、と掴むと、両脚を、ぐいっ、と持ち上げた。それを引き摺りながら、目的地を目指して、移動し始める。
その途中で、ボストンバッグを、肩からぶら下げたままであることに気づいた。彼女を処理している間だけ、ベンチにでも、置いておこうか。一瞬、そんな考えが頭を過ぎった。
しかし、首を左右に振るまでもなく、それは打ち消された。身代金が入っている鞄だ、自分の体から離すだなんて、考えられない。重たいことは重たいし、苦しいことは苦しいが、さいわいにも、耐えられないほどではない。
しばらくして、覧覚は、トイレに着いた。それは、南北に長い直方体のような見た目をしており、全体的に灰色だった。左端に女性用の出入り口、右端に男性用の出入り口がある。
後者の突き当りの壁には、細長い四角柱のような外観をしたロッカーが置かれていた。それの扉には、「用具入れ」と書かれたプレートが貼りつけられていた。
多目的用出入り口は、女性用出入り口と男性用出入り口の間、真ん中あたりに設けられていた。スライド式の扉が取りつけられている。
覧覚は、そこに近づくと、がらがら、と扉を開けた。入室した後、がらがら、ぴしゃり、と閉める。
希死女を、部屋の中央に移動させた。左右の足首から、手を離す。
ばたん、という音を立てて、両脚が床に倒れた。彼女は、仰向けに寝転ぶような格好になった。
「よし、こんなもんでいいだろ……」覧覚は、ぼそり、と呟くと、トイレから立ち去ろうとした。
仰天した。希死女による、「う……」という呻き声が、聞こえたからだ。
一瞬、空耳か、と思った。しかし、そうでないことは、すぐにわかった。
希死女は、「うう……」と呻きながら、両目を開けた。頭からは、相変わらず、勢いを弱めながらも、血が出ている。にもかかわらず、致命傷には至らずに、気絶しただけで済んだ、ということか。
彼女は、ぎょろぎょろ、と目玉を上下左右に動かした後、覧覚に気づいた。「あ……」と、弱々しい声を出す。
「助……死……嫌……」
まさか、まさか、助けるわけにはいかない。ここに、救急車を呼べとでも言うのか、あるいは、彼女を担いで、病院に駆け込めとでも言うのか。そんなことをしていては、確実に、身代金の受け渡しに失敗してしまう。
覧覚は、さっ、と、その場に跪いた。希死女の顔を、覗き込む。
「……」彼女は、どこか、ほっ、としたような表情をした。
覧覚は、両手を、希死女の喉仏めがけて伸ばした。そのまま、首を、がっ、と掴んで、ぎゅうう、と絞め始めた。
「……!」
希死女は、両目を、かっ、と瞠った。それだけだった。抵抗らしい抵抗は、何もしなかった。
しばらくした後、彼女は、手足を、がくがくっ、と半秒ほど痙攣させた。覧覚は思わず、両手に、ぎゅうううっ、と、さらなる力を込めた。
しかし、それから数秒もしないうちに、力を抜いた。首を掴んでいる左右の掌から、脈が伝わってこなくなったからだ。
両手を、頸部から離す。その後、彼女の胸部に、右掌を、強く押しつけた。心臓の鼓動は、まったく感じられなかった。
「死んだな……」
覧覚は、ぼそり、と呟いた。はあー、と安堵の溜め息を吐く。
その後、彼は、いったん、トイレを出た。現場の近くに落ちている、凶器である杖を拾ってから、戻る。それも、便所の中に置いた。
その後、覧覚は、目当ての電車が来るのを待とうとして、ホームに出た。しかし、そこで、新たな問題に気がついた。
希死女を殴ったあたりの地面に、血が、べっとり、と付いているのだ。しかも、そこだけではない。現場から、多目的トイレまでの間にも、血で出来た太い線が引かれていた。希死女を引き摺って移動した時に、彼女の頭から流れた物に違いなかった。
それらは、酸化により、赤黒くなっていた。そのおかげで、おそらく、駅の利用客に、ぱっ、と見られたくらいでは、正体は、ばれないだろう。しかし、不審な印象は抱かれるのではないか。
覧覚は、スマートホンを取り出すと、現在時刻を確認した。目当ての電車が来るまで、まだ、十分強、残っている。
その間に、血痕を処理することはできるか。完全に除去、とまでは言わないまでも、なんとか、誤魔化せるくらいには。しかし、どうやって。当たり前だが、掃除用具なんて、持っていないし。
「そうだ!」
あるアイデアが閃いて、思わず、覧覚は大声を上げた。くるり、と踵を返すと、トイレに近づいていく。
数秒後、到着するなり、男性用出入り口の突き当たりに向かい、そこにあるロッカーの扉を開けた。そこには、バケツやモップ、洗剤といった、掃除用具一式が収納されていた。
「よし……!」
その後、覧覚は、多目的トイレ内に設けられている洗面所の蛇口を使い、バケツ一杯に水を溜めた。それを持って、外に出る。
それから、彼は、溜めた水を、血痕めがけて、ぶち撒けた。吸水により、わずかに鮮やかな赤色へと変化した血が、あっという間に、水と一緒に、ホームの端へ流れ、線路へ落ちていった。
それでも、まだ、いくらかの血が、地面に、こびりついていた。覧覚は、洗剤を持ってくると、蓋を開け、中身を、どばどば、と、それらにぶっかけた。その後、モップで、ごしごし、と擦った。発生した泡は、再び、バケツに水を溜め、それをぶち撒けることにより、線路へ流した。
彼は、それからも、そのような作業を続けた。数分が経過したところで、「もう、これくらいでいいだろう……」と呟き、ふうー、と溜め息を吐いた。
厳密には、まだ、落としきれていない血痕が、地面にこびりついている。しかし、もはや、見た者に不審な印象を与えるような見た目は、していなかった。せいぜい、吐瀉物の類いだと思われるくらいだろう。
覧覚は、その後、使い終えた掃除用具一式を持って、トイレに向かった。ロッカーに、それらを収納する。ばたん、と扉を閉めると、男性用出入り口から出た。
思わず、叫び声を上げそうになった。いつの間にやら、ホームに、人がいたからだ。
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