第2/6話 自殺志願者
人が一人、改札を通って、一番ホームに入ってきた。黒いロングのワンピースを着た、二十代くらいの女性だ。どこか陰鬱な雰囲気を漂わせている。
このタイミングで、駅に来るなんて、まさか、犯人の仲間ではないだろうか。電話の指示はフェイクで、本当は、直接、会って、身代金を受け取るつもりでは。覧覚は、そう思い、身を強張らせた。
しかし、緊張は、次第に解けていった。女性は、接触してくるどころか、視線を向けてくることすら、まったく、なかったのだ。
覧覚は、一番ホームの真ん中あたり、四両目の停車位置マーク前に立っている。彼女は、一番ホームの南東にあるベンチに座った。そして、それからは、じっ、と、線路の奥、二番ホームの側面を、眺めだした。あれでは、覧覚の存在に気づいているかどうかすら、怪しいものだ。
どうやら、犯人グループとは、関係なさそうだ。そう結論づけると、顔の向きを前方に戻した。彼女を見つめたままだと、視線に気づかれるかもしれない。気持ち悪く思われるのなら、まだマシだが、最悪の場合、何かしらのトラブルに発展する可能性だって、なくはない。それだけは、なんとしてでも、避けなければならなかった。
そこまで考えたところで、かんかんかん、という、踏切の警報音が鳴り始めた。まさか、もう、来るのだろうか。そう思い、スマートホンを取り出すと、現在時刻を確認した。
しかし、まだ、目当ての電車の発着時刻には、達していなかった。次に、この駅に停まるのは、その電車のはずだ。つまり、今回、来るのは、餡窓駅を通過する電車か、あるいは、貨物列車だろう。覧覚は、そう結論づけた。
駅の南方、線路の奥に、視線を遣る。しばらくすると、車両が姿を現した。予想どおり、貨物列車だった。
同時に、さきほどの女性が、ベンチを離れ、それの前にあるホームの端に立っているのが、視野に入った。彼女も、列車のほうに、顔を向けていた。
その直後、再び、かなり強い風が、南から北へと吹いた。思わず、左手で、顔を軽く覆った。
次の瞬間、ベンチの座面から、白い物体が、風に吹かれ、飛んできた。それは、覧覚の所にまでやってきた。
なんとはなしに、視線を遣った。飛んできた物は、細長く折り畳まれた、白い紙だった。表には、「遺書」と書かれていた。
思わず、あっ、と小さく声を上げた。ばっ、と顔を上げ、さきほどの女性の様子を窺う。
彼女は、相変わらず、線路の奥からやってきている貨物列車のほうに、顔を向けていた。そのせいで、どんな表情をしているのか、までは、わからない。しかし、その背中には、相変わらず、陰鬱そうな雰囲気が漂っていた。
女性が駅に来る前にも、強風が吹いた。しかし、その時、この遺書は、飛ばされてはこなかった。つまり、これは、その後、誰かの手によって、ベンチに置かれた、ということになる。それは、いったい誰なのか。決まっている。彼女しかいない。
あの女性は、自殺するつもりなのだ。この状況下で行える自殺といえば、一つしかない。電車への飛び込みだ。
覧覚は思わず、ぐっ、と奥歯を噛み締めた。こんな時に、電車への飛び込み自殺をされては、堪らない。確実に、後続の電車の運行に影響が出る。ひいては、身代金を渡せなくなるかもしれない。
彼は、だっ、と、その場から駆けだした。希死女めがけて、一直線に走っていく。
その間にも、貨物列車の先頭車両は、どんどん、ホームの南端に迫ってきた。彼女が、飛び込む準備のためか、ふらり、と体を動かしたのが見えた。
覧覚は、だっ、と両足で地面を蹴りつけた。そのまま、前方に飛び込むようにして、宙を跳んだ。
希死女の体に、右横から、組みついた。そのまま、地面に転倒させる。彼女が、「きゃっ!」という、小さな声を上げたのが聞こえた。
直後、列車の先頭車両が、二人のすぐ横を過ぎていった。後続の貨物車両も、次々と、通っていきだした。
覧覚も、地面に、俯せに倒れた。すぐさま、両手を地面について、四つん這いになった。
ばっ、と頭を動かし、希死女のほうを見た。彼女は、地面に左手をつき、横座りをしていて、「痛たたた……」と呻いていた。
希死女は、さっ、と顔を上げると、きっ、と覧覚を睨んできた。「何すんのよ!」
「そりゃ、こっちの台詞だ!」覧覚は立ち上がった。「お前、列車に、飛び込もうとしてただろ!」
「そ……そうよ!」希死女も立ち上がった。「だから、何?! 止めないでよ! どうせ、『自殺なんてするんじゃない』だとか『生きていればいいこともあるさ』だとか言うんでしょ!」
「言わねえよ! 死にたきゃ、勝手に死にさらせ!」
覧覚は、大声で喚いた。それを聴いて、希死女が、精神的なショックを受けたのが、見て取れた。顔色は、さきほどまでも、別に、よくはなかったが、それから、さらに青白くなった。
「ただな、今、飛び込まれたら困るんだよ! 電車の運行に影響が出るだろうが! 別の所で死ね! 首吊りでも飛び降りでも、好きにやれや!」
覧覚は、全力で喚き続けた。明らかに、パニックに陥っていた。もしかしたら、この女よりも、心の安寧を欠いているかもしれないな、と、他人事のように、ぼんやり思った。
しかし、それも仕方のないことだろう。なにせ、こちとら、家族が戻ってくるか、それとも殺されてしまうか、という状況にいるのだ。平静でいろ、というほうが、無理な話だ。
「はあーっ、はあーっ、はあーっ……」
しばらくしたところで、唐突に、希死女に対する罵倒衝動が治まった。荒くなっている呼吸を、整える。
そこで、相手の様子を、あらためて観察した。彼女は、もはや、何の感情も抱いていないような、無表情をしていた。顔色は、青白いどころか、絵の具のように真っ白だった。
一秒後、希死女は、ぼそり、と呟いた。「死んでやる」
そして、彼女は、線路に向き直った。貨物列車は、未だに、ホームを通過している。
「や──やめろっつってんだろ!」
覧覚は、希死女との距離を詰めた。相手の右腕を、がし、と両手で掴んだ。
「離して! 離してっ!」彼女は、右腕を、ぶんぶん、と振った。
どうやら、これでは振り解けない、と判断したらしい。希死女は、別の行動に移った。くる、と、覧覚のほうを振り向いたかと思うと、拳を握った左手を、突き出してきたのだ。
「うわ……!」
突然だったため、躱せなかった。希死女の拳は、覧覚の鼻に、クリーンヒットした。ばきっ、というような音が鳴った。
彼は、数歩、後ろによろめいた。そこで、足が縺れた。体が、後傾していき始めた。
それは、覧覚には、スローモーションのように感じられたが、実際には、三秒も経なかったに違いない。最終的に、彼は、どたっ、と地面に尻餅をついた。
背中が、がんっ、という音を立てて、何かにぶつかった。思わず、後ろを振り返って、正体を確認する。
それは、ベンチだった。向かって左端に、杖が立てかけてある。
直後、下方から、ぼた、ぼたっ、という音が聞こえてきていることに気づいた。俯いて、そちらに視線を遣る。
シャツに、赤い染みが出来ていた。それが、血痕である、ということや、血は自分の顔から垂れている、ということを把握するのには、一秒も要さなかった。
右掌で、鼻を摩る。ぬるり、という触り心地と、生温かさを感じた。
右手を、顔から離す。掌に、血が、べっとり、と付いていた。
覧覚は、顔を上げると、きっ、と希死女を睨みつけた。彼女は、未だホームを通過している貨物車両に向かって、ふらふら、と、酔っ払っているかのような足取りで、歩いていっていた。
どうする。なんとしてでも、自殺をやめさせなければならない。しかし、今から立ち上がり、希死女に追い縋ったところで、間に合わない。手が届くより先に、彼女は、飛び込んでしまうだろう。いったい、どうすれば。
そこで、みたび、強風が、南から北へと吹いた。直後、右方から、かたん、という音が聞こえてきた。
思わず、そちらに視線を遣る。ベンチに立てかけられていた杖が、倒れていた。それのグリップは、覧覚が地面についている右手の、すぐそばにあった。
「これだ!」
覧覚は、杖めがけて、右手を、ばっ、と伸ばした。グリップを、がしっ、と引っ掴む。
だっ、と床を蹴りつけ、ジャンプするようにして、立ち上がった。直後、右手を、頭の斜め後ろに移動させた。ほぼ同時に、左手でも、グリップを、がしっ、と握り締めた。
「死ぬなっつってんだろうがっ!」
覧覚は、杖の先端を、希死女めがけて振り下ろした。
体のどこかに当たればいい。そう、彼は考えていた。いくら、自殺を実行しようとするような、異常な精神状態にあるとはいえ、殴られれば、怯まざるをえないだろう。もしかしたら、その時に感じた痛みにより、死への恐怖を再認識して、飛び込みを思い止まってくれるかもしれない。
そして、杖の先端は、希死女の頭頂部に命中した。
どごっ、という鈍い音が鳴った。それは、駅じゅうに響き渡ったような気がした。
希死女は、前方に、ばったり、と倒れた。頭の、窪んだ箇所から、血が、どくどくどく、と辺りに広がり始めた。
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