身代金ドロップアウト

吟野慶隆

第1/6話 犯人からの電話

 スマートホンの着信画面に表示されていたのは、妻の名前だったのに、いざ、通話を開始してみると、低い男の声で、「泥埠(どろふ)覧覚(ただあき)だな?」と言われたので、思わず、「えっ?」と訊き返した。

「泥埠覧覚だな、と訊いているんだ」

「は……はい」相手に見えるわけでもないのに、首を縦に振った。「そうですが」まだ、お互いの立場が明確になったわけでもないのに、つい、敬語を使った。

 しかし、お互いの立場は、すぐに明確になった。相手が、「あんたの奥さんと息子さんを誘拐した。返してほしければ、身代金を払え」と言ったからだ。

「えっ……」覧覚は、文字どおり、絶句した。「え、えっと、えっと、その」

「混乱しているな。まあ、無理もないか。いきなり、こんなことを言われたんだからな。よし、証拠を聴かせてやる」

 その直後、べりっ、べりっ、という音がした。テープの類いを、それを貼りつけていた物から、剥がすような音だった。

 次の瞬間、「あなた!」という声が聞こえてきた。妻である、洲穂(すほ)の物だった。

「洲穂!」覧覚は大声を上げた。「どうなってるんだ。いったい、何があったんだ」

「駅前のスーパーに、堤治(ていじ)と一緒に、買い物に行こうとしたの。その途中で、拉致されて……」

「怪我は? 体は大丈夫なのか?」

「大丈夫よ。わたしも、堤治も、何もされていないわ」

 洲穂の声からは、気丈さが窺えた。しかし、しっかりと形作られた物ではない。何かしらのショックを受けたならば、脆くも崩れてしまいそうだ。一緒に拉致されているという堤治を、少しでも安心させるため、精神的な強靭さを装っているのかもしれない。

「お父さん!」

 そんな、男子の声が聞こえてきた。覧覚は思わず、「堤治!」と叫んだ。

「お父さん。お父さん」半秒ほどの沈黙があった。「ぼく、大丈夫だから。お母さん、ぼくが守ってみせるから」

 覧覚は、居た堪れない気持ちになった。もっと、堤治と話をし、安心させてやろうとした。

 しかし、その願いは叶わなかった。犯人が、「もう、じゅうぶんだろう。そこまでだ」と言ったからだ。

 直後、びーっ、という、テープの類いを引っ張るような音と、びりっ、という、引っ張ったそれを適当な長さで千切るような音が、二度、聞こえてきた。それからは、洲穂たちの声は、聞こえなくなった。口を塞がれたに違いなかった。

「状況が理解できたか? もう一度言ってやる、奥さんと息子さんを返してほしければ──」

「いくら、払えばいいんですか?!」

 覧覚は食い気味に訊いた。一瞬、謙るように敬語を使っている自分が、情けなくなった。

 しかし、タメ口で話す勇気はなかった。犯人の機嫌を損ねてしまうかもしれない。イニシアチブは、圧倒的に、向こう側にあるのだ。洲穂たちを無事に取り返すためなら、靴舐めだって裸踊りだって、なんだってしてやる。

「一億円だ」

 犯人は即答した。その声の調子からは、どこか、機嫌のよさが窺えた。覧覚が状況を理解したことに、満足したのかもしれない。

「わかりました。一億円ですね」

 覧覚は、仕事も出世も順調であり、かなり裕福な生活を送れている。あちこちの銀行口座に散らばせている金を搔き集めれば、そのくらいは、用意できるはずだ。

「それで、どのようにして、渡せばよいのですか?」

「協力的だな。嬉しいよ」褒められても、嬉しくもなんともない。「おれは、舐めた態度をとられることが、大嫌いなんだ。今後も、そんな感じで、接してくれよな。

 じゃあ、今から、身代金の受け渡し方法を、説明してやる」


 犯人との電話を終えたのは、午前八時だ。それから、七時間が経過し、午後三時になっていた。今日は、平日だが、覧覚は、有給休暇を取得していたため、家にいたのだ。

 覧覚は、玲縷(れいる)電鉄の鑼隕(らいん)線に属する餡窓(あんまど)駅の、一番ホームに立っていた。

 彼は、左肩に、ボストンバッグのベルトを引っ掛けていた。本体は、左膝の横あたりにぶら下げている。左手で、ベルトの、肩から体の前を通って鞄に至るまでの間を、掴んでいた。

 これは、泥埠家の所有物ではなかった。犯人が、宅配便を使って、送ってきた物だ。この中に身代金を入れろ、という指示だった。

 今、バッグの内部には、あちこちの銀行を駆けずり回って調達した、一億円が入っていた。それなりに重たかったが、家族を救うことを考えれば、苦しくはなかった。ちなみに、犯人によると、重量のせいでベルトが千切れてしまわないよう、丈夫に出来ているような物を選んだ、とのことだ。

 また、バッグには、どこかに、発信機が取りつけられているらしい。それにより、バッグの位置は、常に監視されているそうだ。

 覧覚は、ズボンのポケットからスマートホンを取り出した。ケースの蓋を開け、端末のスリープ状態を解除すると、現在時刻を確認する。午後三時十分。犯人の指示してきた、多巳名(たみな)行きの普通電車が来るまで、あと、ちょうど四十分だ。

 次の瞬間、かなり強い風が、南から北へと吹いた。思わず、左手で顔を覆う。

 覧覚は、スマートホンを操作すると、メールアプリを起動した。それの受信トレイを開くと、目当てのメールのタイトルをタップし、本文を確認した。

 それは、犯人からの電話が終わった後に、受信した物だ。送信者は、泥埠洲穂、となっているが、実際には、犯人が、彼女のスマートホンを使い、送ってきた。

 メールには、画像が添付されていた。灰色の壁に描かれた落書きを撮影した写真だ。ぐにゃぐにゃに歪められたアルファベットが描かれている。それは、「DropRansom!」と記されているように見えた。

 電車に乗る時は、四両目を使え。乗った後は、進行方向に対して右側の景色を見続けろ。この落書きが現れたら、それが見えている間に、どこでもいいから、窓を開けて、バッグを外に落とせ。そんな指示を受けていた。

 覧覚は、無意識的に、はあ、と溜め息を吐いた。ちゃんと、身代金を渡せられるだろうか、と不安に思う。なにしろ、他に、頼れる人がいない。自分一人だけで、やるしかないのだ。

 犯人は、お定まりの警告を吐いた。「警察に通報したら、人質の命はない」という物だ。

 しかし、言われるまでもなく、通報するつもりなど、さらさらなかった。警察に対して、不信感を抱いているからだ。

 覧覚が小学生の頃、当時、住んでいた場所の付近で、連続女児強姦虐殺事件が発生したことがあった。そして、ある日、彼の父が、それの容疑者として、逮捕された。

 父は、無実を主張した。しかし、世間は、それを無視して、覧覚たち家族に対し、強烈なバッシングを浴びせた。どこからか、身元情報が漏れてしまったのだ。

 覧覚は、学校で、ずいぶんと虐められた。罵られたり謗られたり、殴られたり蹴られたりした。母は、「正義の味方」を自称する不良グループに襲われ、暴力を振るわれて、下半身不随となった。持ち家は、被害者の関係者に仕返しとして放火され、全焼した。

 そして、父は、取り調べに耐えきれず、ある時、自殺してしまった。その翌日、真犯人が、警察に出頭した。父は、まさしく無実だったのだ。

 あのような目に遭って、警察を信頼できるわけがない。もしかしたら、誘拐犯は、自分が、警察に対して、不信感を抱いている、ということを、知っているのではないか。それで、家族が誘拐され、身代金を要求されても、警察に通報しない可能性が高い、と考えたのではないか。覧覚は、ふと、そう思った。

 目当ての電車が来るまで、残り、二十五分を切った。吐き気を催すほど、ひどく気持ちが張り詰めているのだが、どうしても、暇を感じてしまう。

 覧覚は、なんとはなしに、辺りを、ぐるり、と見回した。駅には、人が一人もおらず、非常に心細い気持ちにさせられた。まあ、別に、誰かがいたところで、緊張や恐怖が軽減されるわけでもないのだが。

 餡窓駅は、いわゆる無人駅で、駅員はいない。そもそも、利用客自体、そんなに多いわけではない。駅が寂れているのは、いつものことだ。

 線路は、二本あり、南北に伸びている。餡窓駅から、南に十メートルほど離れた所には、踏切が設けられていた。

 ホームは、二つあり、線路を東西から挟み込むようにして配されていた。東側が一番線、西側が二番線だ。

 改札は、一番ホームの東辺の中央付近に、一箇所だけ、設けられている。二番ホームへは、一番ホームの南に建てられている連絡橋を渡って、移動するようになっていた。

 一番ホームの南東あたりには、ベンチが設置されている。そこには、金属製らしき杖が、立てかけられたままになっていた。利用客の忘れ物だろう。

 また、そこの近くには、トイレが設置されていた。入り口は、男性用と女性用、多目的用の三種類があった。

 便所に視線を向けていると、すたすた、という足音が、後ろから聞こえてきた。思わず、そちらに目を遣る。

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