深淵の計略

 座標、アゾルテ・T―221。

 深宇宙に浮かぶステーション。そこには西も東も、北も南もない。

 その中枢部に、アビスという少女が椅子に眠りにつき、そしてたったいま起きたところだった。

 少し伸びた黒髪に、灰色の目。

 細い体躯たいくであり、ちょっと腕っぷしの強いものが力を加えただけで腕などは折れてしまいそうなほど華奢きゃしゃだった。

 アビスの視界には愛くるしく見えなくもない黒猫が浮いていた。

「やあ、アビス。

 起きたようだね。気分はどう?」

 口を開いた黒猫は、鳴き声の代わりに苦もなく人語を話してみせた。

 色つやの良すぎる毛皮、背中には天使のような翼が生えていた。

 それで浮遊している、わけではさすがにない。

 電磁出力による立体光学映像ホロの合成映像でもなく、アビスの目にのみ投影された、他の誰にも視えない幻覚のような存在だった。

 情報処理を滞りなく行うために、疑似人格を持つ人工知能が常に彼女の脳に滞在している。それがこの黒猫なのだ。

 黒猫は、名前を『フェイト』という。

「悪くはないわ」

 調子を問われたアビスはそう返事をして、伸びをした。

 健康そうな声ではある。黒髪が揺れ、灰色の目はくりりと開いている。

 疲労の蓄積を許さない、特殊なジェルが封入された椅子(姿勢や体調に応じて自在に形が変わる)で彼女は仕事や寝起きをしていた。

 フェイトが自動で、移動式の食料だなに指示を出した。

 食料棚はそれはそれで忠犬ちゅうけんのように、底面部の小さな車輪を使ってアビスの元へとやってくる。

 アビスが棚から常温の清潔な飲料水クリア・ウォーターに、棚の中心部に埋め込まれた、マイクロ波により電力供給されている白い冷蔵庫からサンドイッチを取り出す。

 小さな瓶のボトルだ。備え付けの耐衝撃グラスまたは紙コップ(どちらかを選べるのだ!)は使わず、直接瓶に口を付けて水を半分飲み、更に密閉容器に押し込まれるように入ったサンドイッチを開封してむしゃむしゃと食べていく。

 重力は1G。実に快適な生活だった。

 アビスは元は奴隷の少女だったが、現在はこの深宇宙で最上級格に近い生活をしていた。

 技術しょうなどと呼ばれるテクノス屋にその適合性を買われ、一部の権限を委託されたアビスは現在、その小惑星を侵食するような形で存在する宇宙ステーションを牛耳っていた。

 小惑星を虫歯にたとえるなら、ステーションはまるで傷跡に埋められたインプラントそのものだった。しかし小惑星に痛覚はないので、思う存分穴を開けられる。

 インプラントは、アビスの脳にも埋まっている。

 正面から見て左の側頭部に小さな機械が埋まっているのが見えるだろう。

 アビスの仕える技術廠『ノア・テクロノロジーズ』が開発した、手術で脳に埋め込むタイプの特殊装置デバイスだ。

 使用者の知的機能を補助、場合によっては劇的に引き上げる可能性を秘めている。

 大きさは数センチほどで脳に直接埋め込むのに支障はないものの適合性に個人差があり、年齢のせいなのかは不明だが、アビスのインプラント適合性は一般的な人々より一九〇パーセントも上方修正がかけられていると計測結果が示していた。

 若干一五歳のアビスが『ノア・テクノロジーズ』の幹部となっているのは、この極めて希少性の高い知的適合性によるものだった。

 周辺の人口密度を計測、物流のデータを処理。そこからのアゾルテ支社、アビス・ステーションの危険度を監査する。

 毎朝、起きたときに真っ先にアビスが行う仕事だった。

 周辺、一天文単位(AU)。約一億五〇〇〇万キロメートル以内の人口は約一億人。

 かなり控えめな数字で、人やモノの動きはかなり少ない。

 アビス・ステーションの周辺には数十万人から一〇〇〇万人が暮らすことのできる宇宙ステーションがいくつも点在している。

 宇宙ステーションは極めて丈夫な超合金や炭素繊維せんいでできており、また宇宙海賊からの襲撃を警戒しての分散配置となっている。

「フェイトー。

 ステーションの一つが破壊されたんだけど」

 気怠けだるげに、アビスが声を出した。

「破壊じゃなくて半壊だよ~」

気軽に黒猫、フェイトが返事をする。

「ひどいな、これ。約二〇万人が死亡って」

 宇宙ステーションは幾つもの隔壁によってスペース分けが為されている。

 穴を開けられても、ステーションの区画の一部が『消える』だけで済む仕組みである。

 それが、相当な規模でまとめて破壊されたのだ。

「水爆ミサイルの飽和攻撃か。原始人め」

 ステーション生まれ、ステーション育ちのアビスは不愉快そうな声をあらわにした。

 敵は多数のミサイルによる飽和攻撃を行い、迎撃に失敗した数発が哀れなステーションに着弾したようだ。

「この規模なら、警察の介入は避けられない。どーするのさー?」

 ふわふわと宙を舞うフェイトが気軽に言う。

 メンタルケアも兼ねているようで、まあ確かにアビスはフェイトのことが嫌いではなかった。

「逆に利用する」

 笑みさえ浮かべて、よこしまな算段をアビスは整えていった。

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